韓国滞在記 群山編

韓国滞在記

  • ヘルスの思い出
    韓国の人は、運動を習慣的に行っている人が多いなと思う。町中の公園には、ちょっとした運動器具が合って、いつ行ってもだいたい誰かが運動している。最近のアパートには、住民だけが使えるジムがあったりもする。男性は特に、筋肉に強い思いがある人が多いので、シックスパックを手に入れるため、そして維持するためせっせと筋トレに励む。
  • テミョンマートのお話
    テミョンマートのお話 私は基本的に毎日スーパーに行く派だ。子供のころから、母がそういうスタイルの人だったから、それが当たり前のように思っていた。その日に必要なものだけその日に買う。群山の私たちが住んでいるアパートのすぐ横には、小さなスーパーがあった。最初の1年間くらいその周辺にはスーパーはおろか、商店は一軒もなかったから、そのスーパー(テミョンマート)はすぐに行きつけとなった。韓国では、アパートの近くのスーパーはだいたいアパートの名前がついている。私たちの住んでいたアパートの名前がテミョンアパートだったから、スーパーの名前もテミョンマート。安直すぎるような気がしなくもないが、分かりやすくていいか。 たったひとつののマートとは言え、テミョンマートには何でもあるというわけではなかったから、不満と言えば不満だった。 例えば、パン。日本のスーパーは、パン売り場が充実していると思う。いろんなパンの会社が食パンはもちろん、お総菜パンや甘いお菓子系のパン、子供向けのシールのおまけが入ったようなパンなど、種類も豊富に販売しているから、消費者は選び放題だ。だけど、当時の一般的な韓国のスーパーには、数種類の限られたパンしかなかった。チェーンのパン屋さんもまだなかった。小さなスーパーのレジ前の小さなラックに申し訳程度に置かれたパンがすべてだった。選択肢と言えるほど種類はなかった。そして、残念ながら、その中に私の食べたいパンはなかった。日本の美味しいパンが食べたい。何も百貨店に入っている名の知れたパン屋さんのパンでなくてよかった。ふつうにスーパーに売っているパンで十分だから食べたかった。メロンパンがどれほど恋しかったか! 野菜もちょこっとしか置いてなかった。パスタソースやお総菜の素的な便利なものは存在すらしなかった。韓国の家庭の食卓によく出てくるせいか、お豆腐ともやしは、いつ行っても見かけたが。お豆腐は日本のようにお水を張ったパックに入った個包装ではなく、はだかのお豆腐。購入するときに、黒いビニール袋に入れてくれる。もやしは巨大なバケツに山積みになっていた。 フリーズドライのスープ(ユッケジャンとかプゴクッのような)や、お菓子、調味料、缶詰のような日持ちのする食料品は比較的多かったけれど、テミョンマートで一番豊富な品ぞろえを誇っていたのは、おそらく日用品だ。歯ブラシとか、あかすりタオルとか、食器洗い洗剤、石鹸。たぶん、日常生活でよくある「あ、買い忘れた」を解消するのに役立つのがテミョンマートだったのだ思う。 私は毎日毎日飽きもせず、このテミョンマートに通っていたのだけれど、いったい何を買っていたのか、今となっては思い出せない。 それでも、そんな中で精肉コーナーは充実していたと思う。小さなスーパーの奥に、そこそこのスペースをとった精肉コーナーがあった。何を何グラムほしいと伝えれば、秤に載せて包んでくれる、ちゃんと「お肉屋さん」が入っていた。日本の精肉コーナーと違うのは、扱っているのは主に豚肉で、牛肉や鶏肉、そして薄切り肉などはなかったこと。 関西人なので、基本的にお肉イコール牛肉という文化で育ったため、牛肉がないのは辛かった。肉じゃが作ろかなぁと思っても、薄切りの牛肉は見当たらなかった。カレーにしよかなと思ってもやっぱり牛肉は売ってなかった。今なら、毎日サムギョプサル食べれるやんとか、豚肉たっぷりのキムチチゲもええな、とか、うらやましく思うのだけれど。 韓国では今も、お肉を買うときの単位は「斤」だ。1斤は約600グラム。それを最初に学んだのはこのテミョンマートだった。余談だが、この後何年も私はあちこちのスーパーで「삼겹쌀 두근 주세요」を何万回も使うことになる。大事なフレーズを教えてくれたテミョンマート、ありがとう。
  • ケナリの思い出
    ケナリの思い出   韓国の春は美しい。 私は桜の名所・吉野で育ったので、春といえば桜だ。圧巻の吉野山の桜に代表されるような桜の“団体”は存在感がすごいけれど、花自体は優しいピンク色で控えめな雰囲気を醸し出している。そういう控えめながら美しいものに惹かれてしまう。  韓国にも桜の木がある。近年、その桜の木を伐採してしまおうなんて動きもあるようだけれど、桜の木には何の罪もない。人それぞれの考え方や感じ方があるから、自分の価値観を押し付けてはいけないと思う。だけど、とても残念な気持ちになる。  韓国の春、有名なのはケナリとチンダルレだろう。ケナリは、レンギョウ。チンダルレはつつじ。春の公園に行けば、どこでも必ず見られるほどメジャーな花だ。 私たちが通った郡山大学にも、春になれば、そこらじゅうケナリが咲き誇っていた。少し暖かくなってきたよく晴れた春の日にケナリを眺めてぼーっとするのが好きだった。桜と一緒で派手ではないが、かわいらしさを纏った花だと思う。  桜の木の下でお花見は、韓国も共通だが、ケナリの花を愛でながらのお花見は、そういえば聞いたことがない。ケナリは、背の高い植物ではないし、木というほど大きなものでもない。だから、座れば、桜のように見上げなくとも、目線には自ずから可憐な黄色の花たちが見えるし、キムパプでも持ってピクニックなんかすれば、最高だろう。残念ながら、学生時代の私にはそういう発想がなかったのか、毎年毎年ケナリが咲き誇る短い期間に、何とか1年分のケナリを目に焼き付けておこうと必死だった。今みたいに花より団子になったのは、いつからだろう。  ケナリを見るたびに思い出す本がある。まだ渡韓する前、彼に出会う前の、大学生だったころ、私は選択科目で韓国語をとっていた。いちばん人数が少なそうな語学クラスが、その 年初めて開講された韓国語初級クラスだった。ハングルの形っておでんみたいやな、そんな印象しかなかったけれど、履修登録した10名足らずの学生は、気が付けば私を入れて3名になっていた。まぁまぁスパルタな講義内容だったので、否が応でもすぐに韓国語漬の毎日になったし(講義は週1回なのに!)、自分でいうのもなんだがメキメキ上達していった。 そうすると、今までたいして興味もなかった韓国や韓国語に対してどんどん“知りたい”が増えていって、いろんな本を読み漁った。当時はネットで本を買うなんて時代じゃなかった。店頭には、韓国関連の本はほとんど置いてなくて、辞書ですら紀伊国屋とかジュンク堂とか大きめの書店に行って、注文をしなければ手に入らなかったけれど。そんな中で、出会ったのが、鷺沢萌さんの『ケナリも花、サクラも花』だ。この本は、鷺沢萌さんの韓国留学記なのだが、留学を終えて帰国する前の鷺沢萌さんをインタビューしたヤン・スヨンさんという編集者が書いた一文、「――鷺沢萌は、私たちの国が愛する花、ケナリの名前を訊ねた。盛りの季節のケナリのむこうでは、サクラの花も美しく咲いているのが見える。」いつも、この一文を思い出す。 韓国に留学して日々、考えることだらけで、あーあって思うこともいっぱいで、思ってたんと違うやんって思うこともいっぱいで、結局何なんやろなぁって、頭の中がぐるぐるすることだらけで。だから、この一文はぐっと刺さったのかもしれない。鷺沢萌さんと私は立場も違うし、考え方も違うから、同じように韓国に滞在しても、思うことや気づくことは違う。でも、この一文を読んだとき、鷺沢萌さんは、絶対に泣きそうになったと思う。 ケナリを見ると、きれいやなぁとともに、今でもやっぱり私は泣きそうになる。ケナリは暖かくて優しい花だ。
  • お米とお餅
    お米とお餅 随分昔、子供だった時、奈良の田舎の実家にあった米びつ。縦長の箱型で、レバーのようなものを一回押せば1合分のお米が計量されて出てくる、ザ昭和な代物。それによく似たものが、ある日群山のアパートにやってきた。使わなくなったから、と彼の友人が譲ってくれたのだ。中にはけっこうな量のお米が入ったままだったから、とてもありがたかった。 早速お米を炊こうと、久しぶりに押したレバーの感覚に懐かしい子供のころの実家の風景が思い起こされた。感傷に浸るのもつかの間。出てきたお米を研いでいると、何かが変なことに気づく。近眼なのでよく見えていないかもしれない、でも、気のせいではないような気がする。恐る恐る顔を近づけると、何か黒い物体がお米の間からお水に浮かんできているではないか。 ギャーッ!! コクゾウムシだった。取り除けば特に問題はないらしい。だが、当時の私はそんなことも知らなかったし、第一初めて見るコクゾウムシに恐れおののいた。昔から虫は大の苦手だ。無理、無理、無理、絶対無理。どうするん?この大量のお米!  すると、夫が床に新聞紙を敷き、米びつに入っていたお米をすべて新聞紙の上に広げ始めた。そのとたん、お米の中に潜んでいた虫たちが部屋の隅めがけて一斉に移動するではないか。今も忘れない光景だが、トラウマになりかねないほどの衝撃だった。お米の山から脱出した虫たちをすかさず掃除機で吸い取っていく。 その日はあたたかな春の良く晴れた日だった。新聞紙を敷いたお部屋は南向きの大きなガラス窓があるお部屋だったから、日当たりがとてもよかった。虫はこの光が苦手なんだそうだ。だから、暗がりめがけて逃げ出したらしい。掃除機で吸い取っても吸い取ってもきりがないくらいの虫との戦いは、時間はかかったが無事に終わるのだけれど、問題は残ったお米。あの光景を見てしまうと、申し訳ないけれど、このお米を食したいとは、どうしても思えなかった。かといって破棄することもできない。 考えに考えた結果、彼が出した結論は。 おもむろに大きなリュックにお米を詰めだした彼は、ひょいっとそれを背負い、今からバスに乗り市内に行こうと言う。聞けば、お餅屋さんで引き取ってもらえるかもしれないと言うのだ。この古米とお餅を引き換える?このご時世にそんな頼みを了承してくれるような神様みたいなお店あるんやろか。よく揺れる田舎のバスで、10キロはあろうかというお米でパンパンのリュックを背負った彼の横で、わたしは、自分が今西暦何年に生きているのか一生懸命考えたほどだ。  市内の古びた市場の中にあるお餅屋さんは、私たちの持っていたお米をすべて引き取ってくれた。そして、お米の代わりに相当分のお餅を持って行けと言う。韓国のお餅は大好きだ。インジョルミは、甘さのないあべかわ餅みたいであっさりおいしいし、中にゴマの甘い蜜が入ったソンピョンは一口でいくつも頬張ってしまう、なつめや栗がゴロゴロ乗ったヤッパプも独特の風味がよい、真っ白なペクソルギははちみつをつけて食べると最高だ。お餅はすぐに硬くなるので、その日は1日で食べられる分だけいただくことにした。残りはまたいつでも取りに来たらいいよ、と店主は言ってくれたけど、行くのが億劫で、結局そこへ行くことは二度となかったが。  私には、この物々交換的な体験は初めてだったし、そんなシステムが当たり前のように機能していることに、ひっくり返るほど驚いた。お米の中に虫を発見してしまった驚きを上回るくらいの驚きだった。 でも、たぶん、今の韓国なら、田舎であってもこんな経験できないんじゃないかなと思う。 衛生的なこととか考えたら、素人目にも、どこの誰だかわからない赤の他人が持ち込んだお米を引き取って、それでお餅を作り、広くお客に売るなんて、絶対ありえない。 きっともう韓国ではこんな経験できないだろう。当時は、結局よくわからへんけど初めてだらけで面白かったな、とか、お米問題解決してラッキー、くらいにしか思ってなかったと思う。でも、古き良き韓国の人情とか、穏やかさとか、緩さ、そういったものを直に感じることができた経験だった。だから、あの日見聞きし感じたものが、何十年もたった今になっても、形とか映像のような思い出とはまた違って、何か空気感や温度感みたいなものが、感覚としてしっかり残っている。思い出すと、とても暖かくなれる。
  • はじまりの日
    韓国・金浦空港に降り立ったのは、2001年の2月の終わりだった。それまで、ソウルと釜山そして済州島には観光で訪れたことはあったが、いずれも2泊か3泊の短い旅行であって、今回のように“住む”ことを目的とした長期滞在は初めてであった。しかも、ソウルから250キロ離れた聞いたこともないような小さな田舎の港町。良くも悪くも世間知らずで怖いもの知らずだったから、不安なんて微塵もなかったけれど。 その前年にニュージーランドで出会った韓国人の彼(現・夫)が復学する大学がその小さな港町にあったので、彼の復学に合わせてワーホリビザで渡韓することにしたのだ。 空港まで迎えに来ると約束していた彼は、事情で大幅に遅れてやってきた。実家から遠く離れた大学に向かう息子にしばらくは手料理が食べさせられないことを悲しんだ彼の母親が、食べきれないほどのごちそうを作っため、断れず、また早々に食事を切り上げることもできず、しっかり食べたのを母親が見届けてからでないと家を出られなかったのだ。約束の時間に間に合わなくても、ごはん優先、これは彼の母親世代の常識なのかもしれない。 ようやくやってきた彼はしっかりニンニクの匂いを体にまとわせてきた。降り立てば、ニンニクの匂いでいっぱいの金浦空港にいても、彼のニンニク臭は負けていなかったから、よほどのことだった。 そのあと、地下鉄で江南の高速バスターミナルに移動した。ここは、今では迷うほど大きな商業施設を備えた駅に変貌していて、若い子たちがおしゃれでプチプラな服を求めていつもごった返している。だが、当時は高速バスに乗るためだけに降りる駅というイメージだった。ここからは、早朝から深夜まで韓国各地の都市へ高速バスがひっきりなしに出ている。私たちが目的としている全羅北道・群山に向かうバスも30分おきくらいの頻度で出ていた。高速バスの多くは優等と呼ばれるゆったりした座席の乗り心地のよいものだったけれど、群山までの運賃は2000円もしなかったと思うから、お得感のあるバス旅だった。ソウル市内を走るジェットコースターのようなバスとは違い、揺れることもなかった。途中のトイレ休憩を挟んで約3時間半の旅。 私は距離感も何もわからなかったから、やっと着いたと思ったところが東ソウルのトルゲート。なんと旅は始まったばかり、まだ京畿道からも抜け出せていなかった。ここから高速に乗り、3時間はかかると聞いてずいぶんびっくりしたことを覚えている。 韓国の高速道路にあるサービスエリア、韓国語でいうところの休憩所はかなり充実している。休憩所に寄ることは、旅の楽しみのひとつでもあるくらいだ。いちばん好きだったのは、イカを焼いたもの。アツアツの石の上で焼かれてくるっと丸まったイカを裂いて、コチュジャンにつけて食べる。イカが肉厚で、ホカホカあったかくて、本当に美味しかった。バスの車内がイカの匂いで充満しても乗客誰も何も言わない。だって、ほぼすべての乗客が同じようにイカをほおばっているのだから。韓国の休憩所に行く機会があれば、是非堪能してほしい逸品だ。 ようやく到着した群山のバスターミナルは、お世辞にも立派とは言えなかった。小さな小屋のような事務所と待合所が併設されているだけの小さなターミナル。そして、街にはソウルのような大きな建物はマンション以外何一つなかった。群山は、昔の映画「8月のクリスマス」の撮影場所なのだが、映画で見た風景そのものだった。何年か前にタイムスリップしたんじゃないかと思うくらいのどかだった。それでも、バスターミナルがあるそのエリアは、市内と呼ばれる群山唯一の繁華街だった。 バスターミナルから、夜の真っ暗な海沿いをタクシーで走ること20分。ようやく、これから彼と私が住むことになるマンション(韓国ではアパート、略してAPT)に到着した。畑なのか空地なのかわからないだだっ広いところにポツンと一棟だけ建っているアパート。20階建てくらいの大きなアパートの角の小さなお部屋が私たちがこれから約2年住むことになるお部屋だった。まだガスの開通工事をしていなかったから、オンドルもつけられない。2月終わりの韓国はまだまだ寒い。なので、大学のすぐ前にある彼の友人のワンルームに一晩だけお世話になるのだが、ワンルームだから、当然狭い。その狭い空間の狭いトイレの便器の上にシャワーがあるのには本当に面食らった。 どう使っていいやら、粗相があってはいけないと遠慮して、ろくに髪も洗えず適当に顔と手足を洗って終わりにした。 たぶん、便器をビショビショにしながらシャワーを浴びて、あとは適当に拭いて終わり、お掃除も一緒にできて一石二鳥!的なことなんだろうけれど。 とにもかくにも、日本から来たよくわからない初対面の女子まで快く泊めてくれ、一台だけのベッドも譲ってくれた優しいご友人に感謝しつつ、韓国第1日目が終わった。