韓国滞在記 群山編
- 歌の話작성자: kaori S最近、仕事帰りに自宅の最寄り駅の前で、ひとりギター?を弾きながら歌っている男の子をよく見かける。立ち止まって聞く時間的な余裕がないのが残念だが、通りすがりにちょっと癒される。今日は歌ってはるやろか、と楽しみですらある。私たち世代のスピッツとか、T-BOLANから、今の流行りの歌まで、選曲も素晴らしいし、上手に歌い上げてくれる。 そう言えば、韓国では、こういうストリートミュージシャン的な人を見かけたことがない。歌の好きな人が多いイメージだが、道端とか駅前で歌ってる人はいない気がする。代わりに韓国で昔よく見かけたのは、オープンしたお店が開店イベント的な感じで、お店の前にエアーアーチやチューブマンを置いて、きれいなお姉さんが2人ほど音楽に合わせてセクシーに踊るというもの。そのとき流行っていた歌が、今もフレーズが耳に残っているWAXの오빠という曲だ。街中にこの音楽が大音量で響き、ミニスカートのお姉さんがクネクネ踊る姿は、群山到着2日目に初めて目にした。当時の韓国は、かなり保守的で、おへそを出した衣装でテレビに出てはいけないとか、ドラマや映画の中で煙草を吸うシーンはご法度だとか、いろいろ制約が厳しかった。だから、ミニスカートで、ぴったりした衣装を身に付けたお姉さんが見せつけるように踊っている姿は、何というか、口をぽかんと開けたまま見入ってしまうような衝撃だった。そして、同年代とは思えないくらい「お姉さん」だった。今はそんな場面に出くわすこともないと思うが、パワフルな韓国の風景として、오빠の曲と共に今も心に強く残っている。 私が群山に住み始めて少し経った頃、当時の金大中大統領が、日本文化の開放をして、合法的に日本の歌やドラマが韓国に入ってきた。韓国の周りの人たちには、キロロや宇多田ヒカルが大人気だった。ダンスナンバーが人気なのかと思いきや、日本の歌は断然バラードが人気だった。韓国でも、バラードを歌わせたら、チョソンモが一番だったから、バラードもよく聞かれていたのだが。 もしかしたら、外では陽気に踊りながら歌を楽しみ、一人の時間にはバラードにしっかり浸るのが、音楽を楽しむひとつの方法だったのかもしれない。 韓国にも、ノレバンと呼ばれるカラオケがたくさんある。私も群山で何度かカラオケに行ったのだが、日本文化が解放されたとはいえ、当時はまだカラオケで歌える日本の歌は少なかった。それでも、韓国でカバーされた歌などもいくつかあったから、それを日本語歌詞で歌ったりもした。かなりうろ覚えの歌詞を適当にそれらしく歌っていたから、これは今思えば恥ずかしい思い出だ。日本だと、お酒を飲んだり、何かつまみながらカラオケを楽しむのが好きなのだが、韓国のノレバンはお酒もフードもなかった。お酒が飲めるカラオケは、ホステスさんがつくような高級なお店だけだった。ふつうのカラオケで唯一購入できるのは缶ジュース。しかも、昔ながらの250ミリリットルの細長い缶。法律の関係で酒類の販売ができないのだと思うが、カラオケにはお酒がほしい!と思ってしまうのは私だけだろうか。
- 食べること작성자: kaori S한국에서는 ‘먹는’ 것이 옛날부터 변함없이 매우 중요하다. 지금은 ‘혼술남녀’ ‘식사를 합시다’ 말하지 않고 알려진 ‘외로움의 음식’ 등 드라마의 영향도 있어 혼자 식사를 하거나 술을 즐기는 분들도 상당히 늘어난 인상이지만, 기본적으로는 …
- 馬耳山작성자: kaori S馬耳山 私は、たぶん巨象恐怖症だと思う。公園などに立っている偉人か何かの銅像もダメだし、像的なものは全部ダメ。特に仏像系は大きさに関わらず無理だ・・・。何が無理って、もうその雰囲気とか空気感含めて、とにかく怖いのだ。前世ではよっぽどの悪人だったのだろうか。息が苦しくなるくらい圧倒されてしまい、正気でいられなくなる。神社仏閣の多い奈良県民なのに!しかし、こんな私でも、唯一何とか大丈夫な場所がある。それが、全羅北道鎮安にある、馬耳山という山だ。 馬耳山については、コネストなどを見ていただいたほうが詳しくお分かりいただけると思うのでここでは割愛させていただく。 大学の社会人向け英語講座のオンニたちに誘われて行ったのが、わたしの初めての馬耳山だった。ひとりのオンニの旦那さんが車を出してくれて、英語の先生も交え、7-8名で向かった。 目指すのは塔寺と呼ばれるお寺だ。そこまでの道は2ルートある。階段をひたすら上っていく道と、反対側の平坦だけどひたすら歩く道。このときわたしたちは、平坦な道を歩くほうのルートの駐車場に車をとめた。お天気はよかったけれど、冬で雪が積もっていた。冷えた山の空気と静寂な雰囲気に包まれて、とても気持ちのよい道だった。ふだんなら、この静寂さが怖すぎて耐えられなくなるのだが、不思議と気持ちがいいと感じた。塔寺へと続く道の脇には、訪れる人が小さな石を積み上げて作った小さな石塔?があちらこちらにある。わたしたちも、小さな石を拾っては、それぞれの願いを込めながら石塔の上に載せて歩いた。 ようやくたどり着いた塔寺は、見上げるほどの石塔がいくつもそびえたっていて、その神秘さには若干恐怖を感じるほどだったが、これがいわゆるパワースポットなのだと思う。韓国らしい黄金の仏像が鎮座するお寺内部も拝見したが、過呼吸になることもなく意外にも大丈夫だった。 日本だと、御朱印だとかお守りだとか物販販売もあるのだが、この時馬耳山はそういったものはなく、お参りした証に足元の小さな石を載せていくことだけがお参りした証だった。 この時のわたしはこれで十分だった。とても楽しかったし、初めての馬耳山を満喫した。 この何年か後に、プライベートで夫とふたり再び訪れるのだが、このときは反対側の駐車場にとめたので、過酷な階段をあがっていくルートだった。こちらはかなり大変だ。階段の途中で薬水?を飲めるところがあったりもして、体の中から浄化された感はあったけれど、おススメとしては、平坦な道をひたすら進むルートだろう。距離は歩くけれど、韓国のお寺の参詣道には、何といっても所々に素晴らしいお店がある。豚焼肉のお店や、マッコリとチヂミを出してくれるお店や、伝統茶を出してくれる茶店。何が楽しいって、そういうお店に帰りに寄るのが楽しいのだ。不純な動機だとは思う。だけど、韓国の山寺を訪れるのは、こんな楽しみ含めてだと思う。 もし、韓国旅行で少し時間に余裕があるのなら、山寺にも一度足をのばしてほしい。ソウルのパワフルな賑やかさから少し離れた静寂と澄んだ空気を味わえると思うし、山寺への道すがら楽しむ自然の中での食事やお茶は格別だと思う。
- たくあんは正義だ작성자: kaori Sたくあんは正義だ 郡山は、全羅北道に属し、ピビンパで有名な全州からも近い港町だ。全羅道は、お米の産地も多く、美味しいものが集まっている。だから、食事はどのお店に行っても、相対的にハズレがなかったし、食べることは大きな楽しみであった。ただひとつ、不満があったとすれば、美味しい洋食に出会えないことだった。美味しいパスタが食べたかった。猛烈に食べたかった。 日本で大学生だった頃、わたしは友達数人と、世界のごはんを食べる会というものを不定期で開催していた。開催というほどでもないが、韓国を始め、スペイン料理やインド料理、」ロシア料理など大阪にあるいろんな世界のお店に行っては、食を堪能した。知らないものや、見た目で味の想像がつかないものを食べるのは本当に楽しかった。だから、いくら韓国料理が美味しくても、たまには違う国のものが食べたかった。だけど、当時の群山にはそんなこじゃれたお店は一軒もなかったし、ソウルですら難しかったと思う。 パスタを食べたい欲が、日に日に大きくなってきたころ、アパートから自転車で20分くらいのところに、なにやらおしゃれな洋風の建物が建てられ始めた。そして、その建物は期待を裏切らず、イタリアの国旗を掲げたイタリアンのお店としてオープンした。群山初のイタリアンのお店だった。これは行くしかない!行くやろ、行かなあかんやろ! いてもたってもいられず、ある日そのお店に夕ご飯を食べに行ってみた。中も洋風でおしゃれなソファー席があり、雰囲気もよかった。よい意味で、韓国っぽさはかけらもなかった。さて、何を食するか。これは大事だ。このお店は何を得意とするのだろうか。メニュー選びは慎重を期するものと思われた。 だが。 メニューは多くなかった。コースもなかった。肝心のパスタは、トマトソース一択だった。日本の手ごろなチェーンのイタリアンでも、パスタは数種類ある。和風・トマトソース・オイル系・クリーム系はマストだろう。そして、わたしは、オイル系とクリーム系が大好きだ。残念ながら、トマトソースは得意ではない。 トマト・・・。いや、美味しいねんで、美味しいねんけど、赤色じゃなくていいんやけどな。 日ごろ赤色の食べ物を見慣れすぎているわたしは、ここはやっぱり、オイル系かクリーム系でいきたかった。いたしかたあるまい。ないものはないのだ。郷に入れば郷に従えなのだ。 もしかしたら、めっちゃ美味しいトマトソースかもしれない。過去イチのトマトソースに出会うかもしれない。わたし的には健気な期待とでもいうべき心情で、トマトソースをオーダーし、供されるのを待った。 まぁ、そんなもんよね。うん、わかっててん、わかっててんけど、うん、なんかあれやな。 そして、やはり、パスタと一緒に供された小皿には、キムチとたくあんがしっかりのっていた。韓国においては、どんなときでも、キムチとたくあんは正義なのだ。なくてはいけないのだ。それを含めてこそ、パスタが完成するのだ。 だけど、あの頃のわたしは、たくあんとキムチとトマトソースは悲しみでしかなかったという小さな思い出のお話でした。
- 教習所 운전면허학원작성자: kaori S教習所 最近日本では、自動車学校の受講費が高いと話題になっている。昔は、年齢×1万円なんて言われていたらしいが、実際に我が家の息子も1年半前に免許を取りたいと言い出し、教習所に通わせたが、MT車を希望したせいもあるが、学割が効いても年齢×2万円近い金額をお支払いした記憶がある。 それで思い出した。20数年前、学生だった夫は群山で免許を取得したのだが、当時の受講料はすべてコミコミで日本円で5-6万円程度だった。どの国でも、20万くらいが相場だろうと思っていたから、想像をはるかに下回る金額はうれしい驚きだった。 私は、韓国の教習所と言えば、この群山の教習所しか知らないが、初めてこの教習所を見たとき、正直ここが本当にちゃんとした教習所なのか疑ったくらい、何ともこじんまりとした簡易的な場所という印象だった。この奥にでも、私が想像するちゃんとした教習所が隠れているのではないだろうかと思うくらいだった。 大学から教習所行のシャトルバスがあってそれに乗ること15分くらい。大きな道を外れると、山に続く坂道があり、坂道を上がりきった行き止まりのむこうには、平らに広がった広くもない場所があって、そこが教習所だった。まわりには、山しかなかった。 手続きする事務所が入った建物も、待合室も、プレハブだった。待合室にいたっては、コンテナに窓がついただけのような、ほんまに?と思うような建物の中に折り畳みのパイプ椅子が数脚置かれているだけだった。エアコンなどもなく、寒いときは窓を閉め、暑いときは窓を開ける。言わば、自然に優しい待合室だった。肝心の教習するコースは、日本でよく見かけるそれの半分にも満たない規模だった。アスファルト舗装された道以外は、草が生えた空地そのものだった。そして、教習車は、トラック!AT車限定免許なら、もしかしたら普通の乗用車での教習だったのかもしれないが、驚きのあまり私の目はトラックしか捉えていなかったので、そこは残念ながら記憶がない。今は少し制度が違うと思うが、当時はMT車で免許を取得すると、8トントラックまで運転できた。 トラックには、ランプのようなものがついていて、何か違反であったり、路肩に乗り上げたりすると、点灯する仕組みになっていた。ランプが点灯すると、たしかその日の教習は終了し、次回持越しになったように記憶している。そのため、ランプが点灯しないか、ヒヤヒヤしながら、夫の教習を見学したものだ。 でも、たしかにここはちゃんとした教習所で、その後、全州にある免許センター?みたいなところへ行き、無事に免許を取得できた。ただ、日本に来てから、免許更新のために帰国するタイミングを失ってしまい、思い出のあるこの群山の教習所で取った免許はあえなく失効。今は韓国で運転する必要があるときは、面倒だが国際免許証を申請している。パスポートみたいに、領事館とかでも、免許証更新できたらええのになぁと心底思う。 その後、学生だったので車もないから、ペーパードライバーのまま過ごすのだが、ソウルでの就職が決まり、会社の意向?ご厚意?で車通勤が始まる。このときのおもしろエピソードはまたいつかの機会にお話できたらいなと思う。 既出の親友ヒジョンは、ちなみにスーダンで免許取得している。特に講習もなく、教官と一緒に車に乗り、言われるがままエンジンをかけて、アクセルを踏む。50メートルほど直進してストップ。はい、OK!で免許無事取得できたよーと笑っていた。スーダンと韓国の道路事情はかなり違うらしいのだが、彼女にある日車で迎えに行くよと言われたときは、さすがに丁寧にお断りした。そんな彼女も、今は3児の母!かっこよく韓国の道を走っていると信じている。
- チョガマダン 초가마당 식당작성자: kaori Sチョガマダン アパートのお向かいに大きな空地があったのだが、ある日その向こう側に一軒だけぽつんと古民家風の建物ができた。そこそこ大きくて、古民家風でありながらもモダンなその建物は、チョガマダンという名のお昼間はカフェ、夜はお酒が飲める食堂としてオープンした。 今のように何でも調べれば情報が出てくる時代ではなかったこともあり、初めて入るお店というのは、雰囲気もメニューも価格帯もまったくわからない。私は住んでいた部屋の南向きの大きな窓から、チョガマダン全体がよく見えたから、たびたびベランダに出て、何かしら情報が得られないかと観察を試みてみたりもしたのだが、お客さんが入っている風でもない。行ってみたい、でも、場違いやったらどうしよう、とか、めちゃくちゃ高かったらどうしよう、とか思ってしまって、なかなか行動できずにいたのだけれど、若いって素晴らしい!怖いもの知らずだし、何だかんだで好奇心が勝ってしまう! 意を決して、木製の大きな重たいドアを押したら、そこには思っていた以上のパラダイスが広がっていた。広々とした店内は、天然木を使ったテーブルやいす、センスの良いインテリア、むき出しの高い天井の大きな梁、明るくて暖かく落ち着く空間そのものだった。初めて来たのに、居心地が良い、そんなお店だった。お昼は、自家製の伝統茶が楽しめるカフェだったが、私は主に夕ご飯を楽しんだ。 オーナーさんの感じも良くて、建物のすぐ横の畑でとれた新鮮で無農薬の野菜を使ったお料理はどれもこれも美味しかった。中でもわたしが特にお気に入りだったのは、ユッケジャン。ここのユッケジャン以上に美味しいユッケジャンにまだ出会ったことはないし、生涯出会うことはないと思う。それくらい美味しいユッケジャンを出してくれるお店だった。材料など何かが特に違うわけではないと思うけれど、とても深く優しい味で、体にいいものを食べている気がした。あれほど行くまで躊躇していたことが嘘のように、わたしはすぐにチョガマダンの虜になり、一日おきに通ってしまうことになる。 ほかにも、トガニタンは、まったく辛くない味なのにも関わらず食べ始めた途端体中から汗が出てきて、びっくりした。体中がデトックスされているのがよくわかった。아~시원해~と無意識につぶやいたほどだ。これほど、시원하다という言葉がぴったりなシチュエーションはないと思う。ここのごはんを食べると、元気になる気がした。 いつも決まって、ごはんの後はトンドンジュとアルタンを楽しんだ。甕に入ったトンドンジュは、甘くてさっぱりしていて飲みやすくてついつい飲みすぎてしまう。いつもきっちり2甕美味しくいただいた。でも、平気。そう、若いって素晴らしい!当時、二日酔いなんて言葉、わたしの辞書にはなかった! アルタンは、たらこや白子?など魚卵を辛いスープで煮込んだものなのだが、これがまたトンドンジュによく合った。今も韓国に行くと、必ずアルタンを探して歩くのだが、たぶん日本では食べられないお料理だと思う。韓国に行ったら、夜のお楽しみにアルタンとトンドンジュもしくはマッコルリをおススメします。 約10年前、旅行で群山に行ったのだが、チョガマダンは健在だった。建物も、内装もそのままだった。でも、わたしの好きだったユッケジャンやアルタンはもうメニューにはなかった。キムチの古漬けをお鍋にしたキムチチム専門店になっていた。今や幻の味になっちゃったなぁ。 だけど、次回韓国に行くときは、もう一度チョガマダンに行きたいとは思っている。
- 図書館の思い出작성자: kaori S図書館の思い出 群山大学には、大きな図書館があった。私が日本で通っていた大学にももちろん図書館の棟はあったが、調べもののために行く場所という感じだった。地下に書庫があり、1階と2階にも多くの本が収蔵されていた。大きなテーブルがいくつかとイスが置かれていて、そこで調べものにふけった。主に中世の文学を学んでいたので、図書館には足繫く通ったし、4年間みっちりお世話になった。 群山大学の図書館は、私が知っている大学の図書館とは少し違い、本が収蔵されている場所というよりは、自習をする場所という感じだった。大きなテーブルはなくて、仕切りのある個人用の小さな机がズラーっと並んでいる自習室がたくさんあった。そして、いつも朝早くから夜遅くまで自習をしている学生で満員だった。 私も、図書館の静かな雰囲気と、ピリッとした空気感が好きでよく通った。ここで韓国語か英語の勉強をよくしたが、まわりの学生の熱心な姿に刺激されるのかとても集中できた。おもしろかったのは、時々、栄養ドリンクの会社の人が自社の栄養ドリンクを無料で配りにくることだった。無言でそっとドリンクを机の端っこに置いてまわる。よくあることなのだが、最初はびっくりした。うっかり受け取ろうものなら、代金を請求されるのではないかと心配したものだ。地下鉄内で、違法だが物販をしたり、なにか主張する人が、座っている乗客の膝の上に商品やら冊子やらをのせていくことがある。あれは、うっかり受け取ると、買う意思がありと見なされて代金を請求されるので、一切触れてはならないと教えられたが、図書館内で配られる栄養ドリンクはそのまま受け取ってよいらしかった。試飲品的なものなのだが、こんなことをされると、ええ会社やん、このドリンク美味しいやん、となってしまうのが私なので、今でも韓国に行くとこの時のドリンク会社贔屓である。 また、少し休憩したいときや、学食でのランチ後には、よく1階の入り口近くの自販機のコーヒーを飲んだ。紙コップの少量のさして美味しくもないコーヒーだったが、一杯300ウォンだったと記憶している。安かったから、いつも誰かが買ってくれていたように思う。韓国のこの文化好きやわ。ラインナップは、甘ったるいコーヒーと、うっすーいアメリカンと、なぜかユルム茶だった。当時ブラックは飲めないお子ちゃまの舌だったので、甘すぎるほど甘いコーヒーを選んでいたが、美味しくもないと思いながらも、習慣になり毎日コーヒーの時間が癒しでもあった。 勉強をしているとき、私はよく音楽を聴いた。今の人は知らないと思うけど、当時は時代の最先端MDというものがあった。日本にいるときに、せっせとCDをレンタルして、MDにダビングし、マイセレクション的なものをよく作ったものだ。好きだったのは、ウエストライフとか、ブリトニースピアーズとか、スピッツ。シャ乱Qもあったなぁ。 あぁ、もうこのへん死語だらけやわ。 ちなみに、私がコーヒーやらトイレやらで席を立っている間、まわりの席の知らない学生が、私が何のテキストを開いて、何の勉強をし、何の音楽を聴いているか、こっそりチェックしていたことは驚きを通り越して笑ってしまういい思い出だ。今なら、大問題やけどねぇ。 音楽を聴きながら、したいことを一生懸命勉強できたこの環境で過ごせたこと、いい時間やったなぁと思う。たぶん、今日のこの時間も、20数年前と変わらず、群山大学の自習室は勉強熱心な学生さんで満員なんやろうなぁ。人はいくつになっても勉強とは言うけれど、怠惰な毎日を過ごすばかりで、テキストもまっさらなままの私。学生さんからまた刺激もらうため、あの光景、見に行きたいなー。
- カフェとヒジョンの話작성자: kaori Sカフェとヒジョンの話 群山にもカフェがいくつかあった。 今みたいに世界的なチェーンや、おしゃれなカフェはなかったけど、市内に行くと個人経営のようなカフェがあった。メニューは基本的なドリンクのみだった。でも、今と大きく違うのは、食べ物の持ち込みOKなことだった。どこかのケーキ屋さんで買ってきたケーキを持ち込んで、注文したコーヒーとともに楽しむなんてことはふつうの光景だった。 少し話がそれるが。今は韓国発のおいしくてかわいらしいスイーツがいろいろあるけれど、この当時、韓国にスイーツなんてすてきなものはなかった。ソウルですら、おいしいケーキやパンが食べたければ、日本で修行してきた職人さんがいるお店に行かなければならなかったし、数も多くはなかった。そして、肝心のお味は、なんだかなぁ・・・なものが多かった。町中にあるたいていのケーキ屋さんのケーキには、いちごのかわりにミニトマトがのっていたし、生クリームではなくバタークリームが主流だった。それが、20年後にはこんなに変わるなんて! 群山にいるとき、カフェへはひとつ年下の友達とよく行った。ヒジョンというめちゃくちゃ美人でめちゃくちゃ優しい子だった。彼女とは、大学の中の社会人向けの英語講座で知り合った。群山大学の英語科を卒業した彼女は、航空会社への就職に向けて英語講座に熱心に通っていた。ある日の授業後に少し立ち話をする機会があって、そこから、私たちはすぐに仲良しになった。ヒジョンのお姉さんのご主人は、日本でいうところの外務省にお勤めだったので、ヒジョンは大学を休学し、お姉さん夫婦の赴任先であるスーダンに帯同した貴重な経験を持っていた。スーダンの比較的安全な場所に住んでいたのだが、そこでの出来事や、旅行で訪れた中東の話はとても興味深かった。今の情勢では、絶対に訪れることのできない国や、壊されて永遠に姿を消してしまった歴史的価値のある建物や遺産、光景もたくさん見てきた彼女は私にいろんな世界を見せてくれた。スーダンのGがどれほど大きいかなんて話で盛り上がって笑い転げたことも懐かしい。 ヒジョンはその後、しばらくして仁川空港に就職が決まり、当時本国勤務だったお姉さん夫婦が住んでいた京畿道のイルサンに引っ越すのだが、時を同じくして私も偶然イルサンに住むことになる。ヒジョンは、私が結婚するときには介添人を務めてくれたし、長男を出産した際にもたくさん助けてくれた。日本の両親が韓国に遊びにくるときは、私に代わり、仕事を抜けて空港での出迎えから、空港バスに親が乗るまでをサポートしてくれた。ヒジョンはいつもにこにこしていて、お料理上手で、美容にも詳しかった。彼女とのおしゃべり時間はいつもいつも楽しかった。今でもとても大切な、そして自慢の友人だ。 ヒジョンとよく行った群山のカフェはどこも、コーヒーを一杯注文すると、クッキーだの、バナナだの、お皿に山盛りのお菓子が出てくるのがふつうだった。だから、コーヒー一杯で長居できたし、おなかは満足した。うっかりランチを食べすぎた後に行ったカフェでは、クッキーの山を前に、ランチを食べすぎたことを後悔したことは数知れない。私は、てっきりこのサービスが韓国どこでも共通なのかと思っていたけれど、ソウルではそうではなかったらしい。この事実を知った時のがっかり感は相当なものだった。なんやねん、損した気分やん、と。コーヒー一杯で元を取ろうとする関西人気質がついつい出てしまう・・・。 今でもソウルに行くと、必ずカフェに行く。朝早くから空いているところも多いから、チェーンのパン屋さんのカフェで朝食を兼ねてコーヒーを飲んだり、歩き疲れて、そこらへんのカフェで休憩することも多い。そして、たくさん歩いたんやし、と言い訳をして美味しそうなスイーツも注文してしまう。カフェに行くとやっぱりテンションが上がってしまうよね。
- 優しい人작성자: kaori S優しい人 アパートからタクシーで20分くらいのところに大型マートができた。それまで、個人商店のような小さなマートか、それよりは少し大きめのスーパーしかなかった群山に初めてできた全国展開の大型マート。黄色がメインカラーのマート、と言えばわかるだろうか。食料品はもちろん、衣料品、生活雑貨、玩具、文房具など生活に必要なものすべてが揃い、フードコートもあるこの大型マートの誕生は、待ってました!と思わずガッツポーズを決めたくなるような嬉しさだった。 週末になると、遠回りになるけどバスで市内まで行き、そこから10分程度タクシーに乗る。帰りはマート前からタクシーでアパートまで帰る。当時の私たちは車を持っていない学生だったから、タクシーに頼らざるを得なかったのだけれど、その時の群山ならタクシーの初乗りが170円程度だったから、負担になるほどでなかったのはラッキーだった。 その日、わたしたちはいつものように市内までバスで移動し、市内の飲食店でランチをし、午後からタクシーでマートに向かった。そして、いつも通り海外マートにありがちな大きなカートを押しながら、必要な食料品や雑貨を選び、レジに並んだ。ベルトコンベアの上に商品を載せ、店員さんがバーコードを読み取り、お会計がどんどん進む。そして、いざお支払いという段階で、お財布がないことに気づいた。タクシー降りたときはちゃんとあったはず。 え?え?え?とりあえず、お会計を保留にしてもらい、そこらへんを歩き回り、どこかに置き忘れていないか探し回った。お店の外も探し回った。最悪、中身はなくなってもお財布だけでもごみ箱に捨てられていないかも探し回った。 お財布には、クレジットカード、外国人登録証、おろしたばかりの現金数万円と、学生にしたらまぁまぁな金額の残高が印字されたATMの明細票が入っていた。夫の姉がプレゼントしてくれたお財布だけでもせめて戻ってきてほしかった。でも、もう、いろいろあきらめきれへんけど、あきらめなあかんやつ・・・。 マートでのお買い物は申し訳ないけどキャンセルして、いったん家に帰った。アパートについてから家にあるお金でタクシー料金を払い、日本の親に電話し、クレジットカードをとめてもらった。もうどうしようもないけど、今日はとりあえず寝るしかないやん。 次の日は日曜で、私の心とは真逆でよく晴れていた。仕方なしに、ベランダでお洗濯ものを干していたら、ピンポンが鳴った。ピンポンが鳴るときはたいていしつこい宗教の勧誘だったから、この朝のピンポンはただでさえささくれてる私の神経を逆なでするかのようだった。 夫が対応したのだが、ピンポンを鳴らしたのはなんと警察の方だった。昨日、お財布の落とし物届けがありました。中身を確認すると、外国人登録証があって、その住所がこちらだったので伺いました、といった内容のことを言われた。中身を確認するように言われて、その場で確認したのだが、すべてが完璧なまでにそのままだった!クレジットカードも、現金も、明細票までもがそのままだった。 本当に信じられなかった。 警察の方にお礼を言い、落とし物をとどけてくれた方の連絡先を聞き、すぐに電話した。お礼をお伝えし、なにか形でもお礼をさせていただいたいと申し出たのだが、それは丁寧に固辞された。当然のことなのでそこまでしていただかなくても。と。本当にそんなことがあるんや。しかも自分の身に起きたんや。世の中にそんな奇特な人がほんまに存在するんや。 ほんまにほんまにありがたかった。いったんは、あきらめたすべてのものが、そっくりそのままで戻ってきたのだから。名前も顔も知らない方だが、今も私の中で、とても優しかった人として記憶している。
- 軍隊宿舎風居酒屋(군대 내무반 스타일의 술집)작성자: kaori S軍隊宿舎風居酒屋(군대 내무반 스타일의 술집) アパートから歩いて10-15分くらいのところに、ナウン洞という場所があった。繁華街というほどでもないけど、飲食店や少し大きめのスーパーなどが集まっていた。わたしたちは、時々このナウン洞に出かけては、ごはんを食べたり、お酒を飲んだりした。 中でもお気に入りのお店は、内装が軍隊の宿舎風の居酒屋だった。通路を挟んで、両側に座席があるのだが、壁にはずらっとロッカーが並んでいて、軍服がハンガーにかけられ、オブジェとして銃が飾られていた。除隊して2年ほどだった夫は、懐かしいのと、思い出したくないのと、落ち着かないのとで複雑な心境のようだったが、わたしにはすべてが新鮮で、行くたびにわくわくした。 韓国男性は、大学2回生くらいで休学して軍隊に行く人が多い。いかに軍隊が過酷だったか、韓国男性に語らせたら、きっと時間がいくらあっても足りないだろうと思う。今は期間も短くなり、スマホが持ち込めたり、お給料が増額されたり、待遇や環境がかなり改善されているようだが、夫が軍人だったころは今とは比べ物にならないくらい大変だったという。夫は、陸軍だったので、期間は2年2か月。お給料は月に860円程度。訓練中に不慮の事故などがあったとしても、遺族に支払われる保障はごくわずかなものだったそうだ。また、ドラマ「D.P.脱走兵追跡官」など見ていても、夫に言わせると、描かれているエピソードは、誇張された完全なドラマの世界でもないらしい。 さて。この軍隊宿舎風居酒屋だが、メニューはいたってふつうだった。軍隊風の給食とか出てきたらおもしろかっただろうと思うのだが。ただ、ひとつだけびっくりしたメニューがある。メニューと言えるほどでもないのだが、インスタントラーメン。お湯でゆがくタイプではなく、そのままかじるタイプのラーメンである。適当に割ったラーメンに添付の粉末のスープを少しずつ振りかけて食べるのが正式な方法?だ。歯ごたえはカリカリ・ポリポリしていいが、正直美味しいのかどうかは今でもわからない。安いのと、雰囲気に合うのとでよく注文したが、よく喉が渇くのでビールが進んで仕方ない。あれは、お店の戦略だったのだろうか。ちなみに、このタイプのラーメンは今も韓国のマートで販売されていると思うので、よろしければぜひお試しください。 軍隊とは関係ないが、このお店のトイレは外にあった。いったんお店の裏口?から外に出ると、駐車場のような空地があってトイレはそこにあった。古いトイレで、たしか和式だったと記憶している。お水を流すときは、天井からぶら下がっている紐を引く。すると頭上に設置されているタンクからお水が流れてくるシステムだ。足でペダルを踏むか、レバーで流すタイプのトイレしか知らなかったわたしには、かなり驚きだった。設置されているといっても、しっかり固定されているふうでもなく、またタンクも黄ばんだ古いプラスチックの箱状のものだったので、頭上からお水が降ってこないか、タンクが割れないか心配になり、用を足している間ずっとタンクを見上げて確認していたことを思い出す。 そんなトイレも含めて、わたしにはすべてが楽しいお店だったが、今思えばお客さんの入りはよくなかった。いつ行っても数組だけだった。だからなのか、いつの間にか閉店してしまって、心底残念だった。 韓国の特に男性には、見慣れた光景だし、美味しいお酒を飲みながらの友人との楽しい時間を、敢えて軍隊を思い出すような場所で過ごしたくもないんやろうなぁと推測する。 だが、日本からの観光客なんて一人もいない群山だったが、日本人が来ればこのお店を気に入ったと思うし、日本でこんな感じのお店があったら、絶対大人気になるだろうと思う。できれば、このお店そっくりそのまま日本に持って行けないか、わたしは、あの頃と変わらずに実は今もそのことを真剣に考えているほどだ。
- 家작성자: kaori S家 大学の近くには学生向けのワンルームがたくさんあった。大学内には、寮もあった。夫の友人たちは、ほとんどが親元を離れて群山に来ていたので、みんなワンルームか寮に住んでいた。少数ではあるが、昔ながらの下宿に住んでいる夫の友人もいた。ある時この下宿に招待されたことがある。 隣は大家さんの住む一軒家があって、農家なのか敷地内には大家さんの畑が広がっていた。友人たちが住んでいるのは、古い平屋の長屋のような建物であった。アルミの玄関ドアを開けると、2畳くらいの土間があって、一角に簡単なシンクとガス台、そして小さな冷蔵庫が置かれていた。土間の奥には50センチ程度高くなったところに4畳半程度のオンドル床の部屋があった。聞けば、その4畳半の部屋に友人4人で暮らしているという。今でいうところのシェアハウスの感覚に近いのかな。テレビも机もなく、簡単な棚があるだけの質素なお部屋だったが、土間もキッチンもすべてお掃除が行き届いていて、とてもきれいだった。軍隊に行けば誰でもきれい好きになるし、掃除をしっかりするようになるのだと笑っていた。机がなくても、大学の図書館で夜遅くまで勉強できる、テレビを見る暇もない、だから物がなくても不自由はしないのだとも。 ただひとつ衝撃だったのは、外にあるトイレとシャワーだ。どちらもコンクリートのブロック塀で囲まれただけの、これ以上ないくらい簡易な建物だった。脱衣所もなく、気密性のあるドアもなく、本当にシャワーが壁についているだけのもの。トイレも水洗ではなかったように記憶している。それでも彼らは、仲が良かったし、毎日楽しそうだった。いつ会っても陽気だったし、優しかった。警察官の試験を受けるために昼夜勉強していた彼らは、今どうしているのだろう。時には、群山での生活を懐かしく思い出したりしているだろうか。 もうひとつ、なかなかの衝撃を受けた生活スタイルを貫いている先輩がいた。その先輩もやはり親元を離れて群山に来ていたのだが、家を持っていなかった。寝るためだけに帰る家なら、時間もお金ももったいないから不要だと言っていた。院生だったので基本的には、一日中研究室で過ごす。食事は、一日三食すべて大学内の食堂で済ませる。大学には複数の食堂が点在していて、それぞれお昼はもちろん朝も夜もごはんが安い値段で提供された。食堂が違えば味も違うから、飽きることもない。お風呂は、研究室がある棟のトイレの水栓にホースをつなげてそこで冷たい冷水のシャワーを浴びる。冬ですら、それで平気だと言っていた。むしろ、頭がシャキッとして集中力が高まるからいいのだと。寝るときは、研究室の大きな机がベッドになる。着替えなどの私物は、古い車を倉庫代わりに使っていた。 それで体を壊さないのが不思議だったが、勉学が生活のすべてで、勉学のためなら、多少のこと(多少どころではないが)は我慢できる、と言い切る強い人だった。 大学の日語日文学科で日本語を学んでいた年下の女の子は、考試院に住んでいた。節約のためなら不自由さも気になりません、とかわいらしい日本語で話していた姿が印象に残っている。考試院も今はきれいになって、快適なところも増えていると聞くが、20年以上前の韓国の田舎の考試院は、快適とは真逆のところだったと思う。ベッドと机だけの小さな空間、トイレとシャワーは共同。年頃の女の子には、よほどの信念がないと住めないんじゃないかと思ってしまうそんな場所だった。彼女が、一度うちへ遊びに来たことがある。壁中に私が貼っていた韓国語の単語や文法を覚えやすいようイラスト入りで書いたポストイットをかわいいと言ってくれたこと、いちばん美味しいラーメンを作ってあげますとインスタントの安城湯麺を作ってくれたこと、とても優しい思い出だ。彼女は今どこで何をしているのだろう。彼女の思い出の中に今も私がいたら嬉しいなと思う。
- ヘルスの思い出작성자: kaori S韓国の人は、運動を習慣的に行っている人が多いなと思う。町中の公園には、ちょっとした運動器具が合って、いつ行ってもだいたい誰かが運動している。最近のアパートには、住民だけが使えるジムがあったりもする。男性は特に、筋肉に強い思いがある人が多いので、シックスパックを手に入れるため、そして維持するためせっせと筋トレに励む。
- テミョンマートのお話작성자: kaori Sテミョンマートのお話 私は基本的に毎日スーパーに行く派だ。子供のころから、母がそういうスタイルの人だったから、それが当たり前のように思っていた。その日に必要なものだけその日に買う。群山の私たちが住んでいるアパートのすぐ横には、小さなスーパーがあった。最初の1年間くらいその周辺にはスーパーはおろか、商店は一軒もなかったから、そのスーパー(テミョンマート)はすぐに行きつけとなった。韓国では、アパートの近くのスーパーはだいたいアパートの名前がついている。私たちの住んでいたアパートの名前がテミョンアパートだったから、スーパーの名前もテミョンマート。安直すぎるような気がしなくもないが、分かりやすくていいか。 たったひとつののマートとは言え、テミョンマートには何でもあるというわけではなかったから、不満と言えば不満だった。 例えば、パン。日本のスーパーは、パン売り場が充実していると思う。いろんなパンの会社が食パンはもちろん、お総菜パンや甘いお菓子系のパン、子供向けのシールのおまけが入ったようなパンなど、種類も豊富に販売しているから、消費者は選び放題だ。だけど、当時の一般的な韓国のスーパーには、数種類の限られたパンしかなかった。チェーンのパン屋さんもまだなかった。小さなスーパーのレジ前の小さなラックに申し訳程度に置かれたパンがすべてだった。選択肢と言えるほど種類はなかった。そして、残念ながら、その中に私の食べたいパンはなかった。日本の美味しいパンが食べたい。何も百貨店に入っている名の知れたパン屋さんのパンでなくてよかった。ふつうにスーパーに売っているパンで十分だから食べたかった。メロンパンがどれほど恋しかったか! 野菜もちょこっとしか置いてなかった。パスタソースやお総菜の素的な便利なものは存在すらしなかった。韓国の家庭の食卓によく出てくるせいか、お豆腐ともやしは、いつ行っても見かけたが。お豆腐は日本のようにお水を張ったパックに入った個包装ではなく、はだかのお豆腐。購入するときに、黒いビニール袋に入れてくれる。もやしは巨大なバケツに山積みになっていた。 フリーズドライのスープ(ユッケジャンとかプゴクッのような)や、お菓子、調味料、缶詰のような日持ちのする食料品は比較的多かったけれど、テミョンマートで一番豊富な品ぞろえを誇っていたのは、おそらく日用品だ。歯ブラシとか、あかすりタオルとか、食器洗い洗剤、石鹸。たぶん、日常生活でよくある「あ、買い忘れた」を解消するのに役立つのがテミョンマートだったのだ思う。 私は毎日毎日飽きもせず、このテミョンマートに通っていたのだけれど、いったい何を買っていたのか、今となっては思い出せない。 それでも、そんな中で精肉コーナーは充実していたと思う。小さなスーパーの奥に、そこそこのスペースをとった精肉コーナーがあった。何を何グラムほしいと伝えれば、秤に載せて包んでくれる、ちゃんと「お肉屋さん」が入っていた。日本の精肉コーナーと違うのは、扱っているのは主に豚肉で、牛肉や鶏肉、そして薄切り肉などはなかったこと。 関西人なので、基本的にお肉イコール牛肉という文化で育ったため、牛肉がないのは辛かった。肉じゃが作ろかなぁと思っても、薄切りの牛肉は見当たらなかった。カレーにしよかなと思ってもやっぱり牛肉は売ってなかった。今なら、毎日サムギョプサル食べれるやんとか、豚肉たっぷりのキムチチゲもええな、とか、うらやましく思うのだけれど。 韓国では今も、お肉を買うときの単位は「斤」だ。1斤は約600グラム。それを最初に学んだのはこのテミョンマートだった。余談だが、この後何年も私はあちこちのスーパーで「삼겹쌀 두근 주세요」を何万回も使うことになる。大事なフレーズを教えてくれたテミョンマート、ありがとう。
- ケナリの思い出작성자: kaori Sケナリの思い出 韓国の春は美しい。 私は桜の名所・吉野で育ったので、春といえば桜だ。圧巻の吉野山の桜に代表されるような桜の“団体”は存在感がすごいけれど、花自体は優しいピンク色で控えめな雰囲気を醸し出している。そういう控えめながら美しいものに惹かれてしまう。 韓国にも桜の木がある。近年、その桜の木を伐採してしまおうなんて動きもあるようだけれど、桜の木には何の罪もない。人それぞれの考え方や感じ方があるから、自分の価値観を押し付けてはいけないと思う。だけど、とても残念な気持ちになる。 韓国の春、有名なのはケナリとチンダルレだろう。ケナリは、レンギョウ。チンダルレはつつじ。春の公園に行けば、どこでも必ず見られるほどメジャーな花だ。 私たちが通った郡山大学にも、春になれば、そこらじゅうケナリが咲き誇っていた。少し暖かくなってきたよく晴れた春の日にケナリを眺めてぼーっとするのが好きだった。桜と一緒で派手ではないが、かわいらしさを纏った花だと思う。 桜の木の下でお花見は、韓国も共通だが、ケナリの花を愛でながらのお花見は、そういえば聞いたことがない。ケナリは、背の高い植物ではないし、木というほど大きなものでもない。だから、座れば、桜のように見上げなくとも、目線には自ずから可憐な黄色の花たちが見えるし、キムパプでも持ってピクニックなんかすれば、最高だろう。残念ながら、学生時代の私にはそういう発想がなかったのか、毎年毎年ケナリが咲き誇る短い期間に、何とか1年分のケナリを目に焼き付けておこうと必死だった。今みたいに花より団子になったのは、いつからだろう。 ケナリを見るたびに思い出す本がある。まだ渡韓する前、彼に出会う前の、大学生だったころ、私は選択科目で韓国語をとっていた。いちばん人数が少なそうな語学クラスが、その 年初めて開講された韓国語初級クラスだった。ハングルの形っておでんみたいやな、そんな印象しかなかったけれど、履修登録した10名足らずの学生は、気が付けば私を入れて3名になっていた。まぁまぁスパルタな講義内容だったので、否が応でもすぐに韓国語漬の毎日になったし(講義は週1回なのに!)、自分でいうのもなんだがメキメキ上達していった。 そうすると、今までたいして興味もなかった韓国や韓国語に対してどんどん“知りたい”が増えていって、いろんな本を読み漁った。当時はネットで本を買うなんて時代じゃなかった。店頭には、韓国関連の本はほとんど置いてなくて、辞書ですら紀伊国屋とかジュンク堂とか大きめの書店に行って、注文をしなければ手に入らなかったけれど。そんな中で、出会ったのが、鷺沢萌さんの『ケナリも花、サクラも花』だ。この本は、鷺沢萌さんの韓国留学記なのだが、留学を終えて帰国する前の鷺沢萌さんをインタビューしたヤン・スヨンさんという編集者が書いた一文、「――鷺沢萌は、私たちの国が愛する花、ケナリの名前を訊ねた。盛りの季節のケナリのむこうでは、サクラの花も美しく咲いているのが見える。」いつも、この一文を思い出す。 韓国に留学して日々、考えることだらけで、あーあって思うこともいっぱいで、思ってたんと違うやんって思うこともいっぱいで、結局何なんやろなぁって、頭の中がぐるぐるすることだらけで。だから、この一文はぐっと刺さったのかもしれない。鷺沢萌さんと私は立場も違うし、考え方も違うから、同じように韓国に滞在しても、思うことや気づくことは違う。でも、この一文を読んだとき、鷺沢萌さんは、絶対に泣きそうになったと思う。 ケナリを見ると、きれいやなぁとともに、今でもやっぱり私は泣きそうになる。ケナリは暖かくて優しい花だ。
- お米とお餅작성자: kaori Sお米とお餅 随分昔、子供だった時、奈良の田舎の実家にあった米びつ。縦長の箱型で、レバーのようなものを一回押せば1合分のお米が計量されて出てくる、ザ昭和な代物。それによく似たものが、ある日群山のアパートにやってきた。使わなくなったから、と彼の友人が譲ってくれたのだ。中にはけっこうな量のお米が入ったままだったから、とてもありがたかった。 早速お米を炊こうと、久しぶりに押したレバーの感覚に懐かしい子供のころの実家の風景が思い起こされた。感傷に浸るのもつかの間。出てきたお米を研いでいると、何かが変なことに気づく。近眼なのでよく見えていないかもしれない、でも、気のせいではないような気がする。恐る恐る顔を近づけると、何か黒い物体がお米の間からお水に浮かんできているではないか。 ギャーッ!! コクゾウムシだった。取り除けば特に問題はないらしい。だが、当時の私はそんなことも知らなかったし、第一初めて見るコクゾウムシに恐れおののいた。昔から虫は大の苦手だ。無理、無理、無理、絶対無理。どうするん?この大量のお米! すると、夫が床に新聞紙を敷き、米びつに入っていたお米をすべて新聞紙の上に広げ始めた。そのとたん、お米の中に潜んでいた虫たちが部屋の隅めがけて一斉に移動するではないか。今も忘れない光景だが、トラウマになりかねないほどの衝撃だった。お米の山から脱出した虫たちをすかさず掃除機で吸い取っていく。 その日はあたたかな春の良く晴れた日だった。新聞紙を敷いたお部屋は南向きの大きなガラス窓があるお部屋だったから、日当たりがとてもよかった。虫はこの光が苦手なんだそうだ。だから、暗がりめがけて逃げ出したらしい。掃除機で吸い取っても吸い取ってもきりがないくらいの虫との戦いは、時間はかかったが無事に終わるのだけれど、問題は残ったお米。あの光景を見てしまうと、申し訳ないけれど、このお米を食したいとは、どうしても思えなかった。かといって破棄することもできない。 考えに考えた結果、彼が出した結論は。 おもむろに大きなリュックにお米を詰めだした彼は、ひょいっとそれを背負い、今からバスに乗り市内に行こうと言う。聞けば、お餅屋さんで引き取ってもらえるかもしれないと言うのだ。この古米とお餅を引き換える?このご時世にそんな頼みを了承してくれるような神様みたいなお店あるんやろか。よく揺れる田舎のバスで、10キロはあろうかというお米でパンパンのリュックを背負った彼の横で、わたしは、自分が今西暦何年に生きているのか一生懸命考えたほどだ。 市内の古びた市場の中にあるお餅屋さんは、私たちの持っていたお米をすべて引き取ってくれた。そして、お米の代わりに相当分のお餅を持って行けと言う。韓国のお餅は大好きだ。インジョルミは、甘さのないあべかわ餅みたいであっさりおいしいし、中にゴマの甘い蜜が入ったソンピョンは一口でいくつも頬張ってしまう、なつめや栗がゴロゴロ乗ったヤッパプも独特の風味がよい、真っ白なペクソルギははちみつをつけて食べると最高だ。お餅はすぐに硬くなるので、その日は1日で食べられる分だけいただくことにした。残りはまたいつでも取りに来たらいいよ、と店主は言ってくれたけど、行くのが億劫で、結局そこへ行くことは二度となかったが。 私には、この物々交換的な体験は初めてだったし、そんなシステムが当たり前のように機能していることに、ひっくり返るほど驚いた。お米の中に虫を発見してしまった驚きを上回るくらいの驚きだった。 でも、たぶん、今の韓国なら、田舎であってもこんな経験できないんじゃないかなと思う。 衛生的なこととか考えたら、素人目にも、どこの誰だかわからない赤の他人が持ち込んだお米を引き取って、それでお餅を作り、広くお客に売るなんて、絶対ありえない。 きっともう韓国ではこんな経験できないだろう。当時は、結局よくわからへんけど初めてだらけで面白かったな、とか、お米問題解決してラッキー、くらいにしか思ってなかったと思う。でも、古き良き韓国の人情とか、穏やかさとか、緩さ、そういったものを直に感じることができた経験だった。だから、あの日見聞きし感じたものが、何十年もたった今になっても、形とか映像のような思い出とはまた違って、何か空気感や温度感みたいなものが、感覚としてしっかり残っている。思い出すと、とても暖かくなれる。
- はじまりの日작성자: kaori S韓国・金浦空港に降り立ったのは、2001年の2月の終わりだった。それまで、ソウルと釜山そして済州島には観光で訪れたことはあったが、いずれも2泊か3泊の短い旅行であって、今回のように“住む”ことを目的とした長期滞在は初めてであった。しかも、ソウルから250キロ離れた聞いたこともないような小さな田舎の港町。良くも悪くも世間知らずで怖いもの知らずだったから、不安なんて微塵もなかったけれど。 その前年にニュージーランドで出会った韓国人の彼(現・夫)が復学する大学がその小さな港町にあったので、彼の復学に合わせてワーホリビザで渡韓することにしたのだ。 空港まで迎えに来ると約束していた彼は、事情で大幅に遅れてやってきた。実家から遠く離れた大学に向かう息子にしばらくは手料理が食べさせられないことを悲しんだ彼の母親が、食べきれないほどのごちそうを作っため、断れず、また早々に食事を切り上げることもできず、しっかり食べたのを母親が見届けてからでないと家を出られなかったのだ。約束の時間に間に合わなくても、ごはん優先、これは彼の母親世代の常識なのかもしれない。 ようやくやってきた彼はしっかりニンニクの匂いを体にまとわせてきた。降り立てば、ニンニクの匂いでいっぱいの金浦空港にいても、彼のニンニク臭は負けていなかったから、よほどのことだった。 そのあと、地下鉄で江南の高速バスターミナルに移動した。ここは、今では迷うほど大きな商業施設を備えた駅に変貌していて、若い子たちがおしゃれでプチプラな服を求めていつもごった返している。だが、当時は高速バスに乗るためだけに降りる駅というイメージだった。ここからは、早朝から深夜まで韓国各地の都市へ高速バスがひっきりなしに出ている。私たちが目的としている全羅北道・群山に向かうバスも30分おきくらいの頻度で出ていた。高速バスの多くは優等と呼ばれるゆったりした座席の乗り心地のよいものだったけれど、群山までの運賃は2000円もしなかったと思うから、お得感のあるバス旅だった。ソウル市内を走るジェットコースターのようなバスとは違い、揺れることもなかった。途中のトイレ休憩を挟んで約3時間半の旅。 私は距離感も何もわからなかったから、やっと着いたと思ったところが東ソウルのトルゲート。なんと旅は始まったばかり、まだ京畿道からも抜け出せていなかった。ここから高速に乗り、3時間はかかると聞いてずいぶんびっくりしたことを覚えている。 韓国の高速道路にあるサービスエリア、韓国語でいうところの休憩所はかなり充実している。休憩所に寄ることは、旅の楽しみのひとつでもあるくらいだ。いちばん好きだったのは、イカを焼いたもの。アツアツの石の上で焼かれてくるっと丸まったイカを裂いて、コチュジャンにつけて食べる。イカが肉厚で、ホカホカあったかくて、本当に美味しかった。バスの車内がイカの匂いで充満しても乗客誰も何も言わない。だって、ほぼすべての乗客が同じようにイカをほおばっているのだから。韓国の休憩所に行く機会があれば、是非堪能してほしい逸品だ。 ようやく到着した群山のバスターミナルは、お世辞にも立派とは言えなかった。小さな小屋のような事務所と待合所が併設されているだけの小さなターミナル。そして、街にはソウルのような大きな建物はマンション以外何一つなかった。群山は、昔の映画「8月のクリスマス」の撮影場所なのだが、映画で見た風景そのものだった。何年か前にタイムスリップしたんじゃないかと思うくらいのどかだった。それでも、バスターミナルがあるそのエリアは、市内と呼ばれる群山唯一の繁華街だった。 バスターミナルから、夜の真っ暗な海沿いをタクシーで走ること20分。ようやく、これから彼と私が住むことになるマンション(韓国ではアパート、略してAPT)に到着した。畑なのか空地なのかわからないだだっ広いところにポツンと一棟だけ建っているアパート。20階建てくらいの大きなアパートの角の小さなお部屋が私たちがこれから約2年住むことになるお部屋だった。まだガスの開通工事をしていなかったから、オンドルもつけられない。2月終わりの韓国はまだまだ寒い。なので、大学のすぐ前にある彼の友人のワンルームに一晩だけお世話になるのだが、ワンルームだから、当然狭い。その狭い空間の狭いトイレの便器の上にシャワーがあるのには本当に面食らった。 どう使っていいやら、粗相があってはいけないと遠慮して、ろくに髪も洗えず適当に顔と手足を洗って終わりにした。 たぶん、便器をビショビショにしながらシャワーを浴びて、あとは適当に拭いて終わり、お掃除も一緒にできて一石二鳥!的なことなんだろうけれど。 とにもかくにも、日本から来たよくわからない初対面の女子まで快く泊めてくれ、一台だけのベッドも譲ってくれた優しいご友人に感謝しつつ、韓国第1日目が終わった。