歌の話

最近、仕事帰りに自宅の最寄り駅の前で、ひとりギター?を弾きながら歌っている男の子をよく見かける。立ち止まって聞く時間的な余裕がないのが残念だが、通りすがりにちょっと癒される。今日は歌ってはるやろか、と楽しみですらある。私たち世代のスピッツとか、T-BOLANから、今の流行りの歌まで、選曲も素晴らしいし、上手に歌い上げてくれる。   そう言えば、韓国では、こういうストリートミュージシャン的な人を見かけたことがない。歌の好きな人が多いイメージだが、道端とか駅前で歌ってる人はいない気がする。代わりに韓国で昔よく見かけたのは、オープンしたお店が開店イベント的な感じで、お店の前にエアーアーチやチューブマンを置いて、きれいなお姉さんが2人ほど音楽に合わせてセクシーに踊るというもの。そのとき流行っていた歌が、今もフレーズが耳に残っているWAXの오빠という曲だ。街中にこの音楽が大音量で響き、ミニスカートのお姉さんがクネクネ踊る姿は、群山到着2日目に初めて目にした。当時の韓国は、かなり保守的で、おへそを出した衣装でテレビに出てはいけないとか、ドラマや映画の中で煙草を吸うシーンはご法度だとか、いろいろ制約が厳しかった。だから、ミニスカートで、ぴったりした衣装を身に付けたお姉さんが見せつけるように踊っている姿は、何というか、口をぽかんと開けたまま見入ってしまうような衝撃だった。そして、同年代とは思えないくらい「お姉さん」だった。今はそんな場面に出くわすこともないと思うが、パワフルな韓国の風景として、오빠の曲と共に今も心に強く残っている。   私が群山に住み始めて少し経った頃、当時の金大中大統領が、日本文化の開放をして、合法的に日本の歌やドラマが韓国に入ってきた。韓国の周りの人たちには、キロロや宇多田ヒカルが大人気だった。ダンスナンバーが人気なのかと思いきや、日本の歌は断然バラードが人気だった。韓国でも、バラードを歌わせたら、チョソンモが一番だったから、バラードもよく聞かれていたのだが。 もしかしたら、外では陽気に踊りながら歌を楽しみ、一人の時間にはバラードにしっかり浸るのが、音楽を楽しむひとつの方法だったのかもしれない。   韓国にも、ノレバンと呼ばれるカラオケがたくさんある。私も群山で何度かカラオケに行ったのだが、日本文化が解放されたとはいえ、当時はまだカラオケで歌える日本の歌は少なかった。それでも、韓国でカバーされた歌などもいくつかあったから、それを日本語歌詞で歌ったりもした。かなりうろ覚えの歌詞を適当にそれらしく歌っていたから、これは今思えば恥ずかしい思い出だ。日本だと、お酒を飲んだり、何かつまみながらカラオケを楽しむのが好きなのだが、韓国のノレバンはお酒もフードもなかった。お酒が飲めるカラオケは、ホステスさんがつくような高級なお店だけだった。ふつうのカラオケで唯一購入できるのは缶ジュース。しかも、昔ながらの250ミリリットルの細長い缶。法律の関係で酒類の販売ができないのだと思うが、カラオケにはお酒がほしい!と思ってしまうのは私だけだろうか。

食べること

한국에서는 ‘먹는’ 것이 옛날부터 변함없이 매우 중요하다. 지금은 ‘혼술남녀’ ‘식사를 합시다’ 말하지 않고 알려진 ‘외로움의 음식’ 등 드라마의 영향도 있어 혼자 식사를 하거나 술을 즐기는 분들도 상당히 늘어난 인상이지만, 기본적으로는 …

馬耳山

馬耳山   私は、たぶん巨象恐怖症だと思う。公園などに立っている偉人か何かの銅像もダメだし、像的なものは全部ダメ。特に仏像系は大きさに関わらず無理だ・・・。何が無理って、もうその雰囲気とか空気感含めて、とにかく怖いのだ。前世ではよっぽどの悪人だったのだろうか。息が苦しくなるくらい圧倒されてしまい、正気でいられなくなる。神社仏閣の多い奈良県民なのに!しかし、こんな私でも、唯一何とか大丈夫な場所がある。それが、全羅北道鎮安にある、馬耳山という山だ。   馬耳山については、コネストなどを見ていただいたほうが詳しくお分かりいただけると思うのでここでは割愛させていただく。   大学の社会人向け英語講座のオンニたちに誘われて行ったのが、わたしの初めての馬耳山だった。ひとりのオンニの旦那さんが車を出してくれて、英語の先生も交え、7-8名で向かった。 目指すのは塔寺と呼ばれるお寺だ。そこまでの道は2ルートある。階段をひたすら上っていく道と、反対側の平坦だけどひたすら歩く道。このときわたしたちは、平坦な道を歩くほうのルートの駐車場に車をとめた。お天気はよかったけれど、冬で雪が積もっていた。冷えた山の空気と静寂な雰囲気に包まれて、とても気持ちのよい道だった。ふだんなら、この静寂さが怖すぎて耐えられなくなるのだが、不思議と気持ちがいいと感じた。塔寺へと続く道の脇には、訪れる人が小さな石を積み上げて作った小さな石塔?があちらこちらにある。わたしたちも、小さな石を拾っては、それぞれの願いを込めながら石塔の上に載せて歩いた。   ようやくたどり着いた塔寺は、見上げるほどの石塔がいくつもそびえたっていて、その神秘さには若干恐怖を感じるほどだったが、これがいわゆるパワースポットなのだと思う。韓国らしい黄金の仏像が鎮座するお寺内部も拝見したが、過呼吸になることもなく意外にも大丈夫だった。   日本だと、御朱印だとかお守りだとか物販販売もあるのだが、この時馬耳山はそういったものはなく、お参りした証に足元の小さな石を載せていくことだけがお参りした証だった。 この時のわたしはこれで十分だった。とても楽しかったし、初めての馬耳山を満喫した。   この何年か後に、プライベートで夫とふたり再び訪れるのだが、このときは反対側の駐車場にとめたので、過酷な階段をあがっていくルートだった。こちらはかなり大変だ。階段の途中で薬水?を飲めるところがあったりもして、体の中から浄化された感はあったけれど、おススメとしては、平坦な道をひたすら進むルートだろう。距離は歩くけれど、韓国のお寺の参詣道には、何といっても所々に素晴らしいお店がある。豚焼肉のお店や、マッコリとチヂミを出してくれるお店や、伝統茶を出してくれる茶店。何が楽しいって、そういうお店に帰りに寄るのが楽しいのだ。不純な動機だとは思う。だけど、韓国の山寺を訪れるのは、こんな楽しみ含めてだと思う。   もし、韓国旅行で少し時間に余裕があるのなら、山寺にも一度足をのばしてほしい。ソウルのパワフルな賑やかさから少し離れた静寂と澄んだ空気を味わえると思うし、山寺への道すがら楽しむ自然の中での食事やお茶は格別だと思う。  

たくあんは正義だ

たくあんは正義だ  郡山は、全羅北道に属し、ピビンパで有名な全州からも近い港町だ。全羅道は、お米の産地も多く、美味しいものが集まっている。だから、食事はどのお店に行っても、相対的にハズレがなかったし、食べることは大きな楽しみであった。ただひとつ、不満があったとすれば、美味しい洋食に出会えないことだった。美味しいパスタが食べたかった。猛烈に食べたかった。  日本で大学生だった頃、わたしは友達数人と、世界のごはんを食べる会というものを不定期で開催していた。開催というほどでもないが、韓国を始め、スペイン料理やインド料理、」ロシア料理など大阪にあるいろんな世界のお店に行っては、食を堪能した。知らないものや、見た目で味の想像がつかないものを食べるのは本当に楽しかった。だから、いくら韓国料理が美味しくても、たまには違う国のものが食べたかった。だけど、当時の群山にはそんなこじゃれたお店は一軒もなかったし、ソウルですら難しかったと思う。  パスタを食べたい欲が、日に日に大きくなってきたころ、アパートから自転車で20分くらいのところに、なにやらおしゃれな洋風の建物が建てられ始めた。そして、その建物は期待を裏切らず、イタリアの国旗を掲げたイタリアンのお店としてオープンした。群山初のイタリアンのお店だった。これは行くしかない!行くやろ、行かなあかんやろ!  いてもたってもいられず、ある日そのお店に夕ご飯を食べに行ってみた。中も洋風でおしゃれなソファー席があり、雰囲気もよかった。よい意味で、韓国っぽさはかけらもなかった。さて、何を食するか。これは大事だ。このお店は何を得意とするのだろうか。メニュー選びは慎重を期するものと思われた。  だが。  メニューは多くなかった。コースもなかった。肝心のパスタは、トマトソース一択だった。日本の手ごろなチェーンのイタリアンでも、パスタは数種類ある。和風・トマトソース・オイル系・クリーム系はマストだろう。そして、わたしは、オイル系とクリーム系が大好きだ。残念ながら、トマトソースは得意ではない。 トマト・・・。いや、美味しいねんで、美味しいねんけど、赤色じゃなくていいんやけどな。 日ごろ赤色の食べ物を見慣れすぎているわたしは、ここはやっぱり、オイル系かクリーム系でいきたかった。いたしかたあるまい。ないものはないのだ。郷に入れば郷に従えなのだ。 もしかしたら、めっちゃ美味しいトマトソースかもしれない。過去イチのトマトソースに出会うかもしれない。わたし的には健気な期待とでもいうべき心情で、トマトソースをオーダーし、供されるのを待った。  まぁ、そんなもんよね。うん、わかっててん、わかっててんけど、うん、なんかあれやな。  そして、やはり、パスタと一緒に供された小皿には、キムチとたくあんがしっかりのっていた。韓国においては、どんなときでも、キムチとたくあんは正義なのだ。なくてはいけないのだ。それを含めてこそ、パスタが完成するのだ。  だけど、あの頃のわたしは、たくあんとキムチとトマトソースは悲しみでしかなかったという小さな思い出のお話でした。

教習所 운전면허학원

教習所 운전면허학원

教習所    最近日本では、自動車学校の受講費が高いと話題になっている。昔は、年齢×1万円なんて言われていたらしいが、実際に我が家の息子も1年半前に免許を取りたいと言い出し、教習所に通わせたが、MT車を希望したせいもあるが、学割が効いても年齢×2万円近い金額をお支払いした記憶がある。    それで思い出した。20数年前、学生だった夫は群山で免許を取得したのだが、当時の受講料はすべてコミコミで日本円で5-6万円程度だった。どの国でも、20万くらいが相場だろうと思っていたから、想像をはるかに下回る金額はうれしい驚きだった。 私は、韓国の教習所と言えば、この群山の教習所しか知らないが、初めてこの教習所を見たとき、正直ここが本当にちゃんとした教習所なのか疑ったくらい、何ともこじんまりとした簡易的な場所という印象だった。この奥にでも、私が想像するちゃんとした教習所が隠れているのではないだろうかと思うくらいだった。 大学から教習所行のシャトルバスがあってそれに乗ること15分くらい。大きな道を外れると、山に続く坂道があり、坂道を上がりきった行き止まりのむこうには、平らに広がった広くもない場所があって、そこが教習所だった。まわりには、山しかなかった。   手続きする事務所が入った建物も、待合室も、プレハブだった。待合室にいたっては、コンテナに窓がついただけのような、ほんまに?と思うような建物の中に折り畳みのパイプ椅子が数脚置かれているだけだった。エアコンなどもなく、寒いときは窓を閉め、暑いときは窓を開ける。言わば、自然に優しい待合室だった。肝心の教習するコースは、日本でよく見かけるそれの半分にも満たない規模だった。アスファルト舗装された道以外は、草が生えた空地そのものだった。そして、教習車は、トラック!AT車限定免許なら、もしかしたら普通の乗用車での教習だったのかもしれないが、驚きのあまり私の目はトラックしか捉えていなかったので、そこは残念ながら記憶がない。今は少し制度が違うと思うが、当時はMT車で免許を取得すると、8トントラックまで運転できた。 トラックには、ランプのようなものがついていて、何か違反であったり、路肩に乗り上げたりすると、点灯する仕組みになっていた。ランプが点灯すると、たしかその日の教習は終了し、次回持越しになったように記憶している。そのため、ランプが点灯しないか、ヒヤヒヤしながら、夫の教習を見学したものだ。   でも、たしかにここはちゃんとした教習所で、その後、全州にある免許センター?みたいなところへ行き、無事に免許を取得できた。ただ、日本に来てから、免許更新のために帰国するタイミングを失ってしまい、思い出のあるこの群山の教習所で取った免許はあえなく失効。今は韓国で運転する必要があるときは、面倒だが国際免許証を申請している。パスポートみたいに、領事館とかでも、免許証更新できたらええのになぁと心底思う。   その後、学生だったので車もないから、ペーパードライバーのまま過ごすのだが、ソウルでの就職が決まり、会社の意向?ご厚意?で車通勤が始まる。このときのおもしろエピソードはまたいつかの機会にお話できたらいなと思う。   既出の親友ヒジョンは、ちなみにスーダンで免許取得している。特に講習もなく、教官と一緒に車に乗り、言われるがままエンジンをかけて、アクセルを踏む。50メートルほど直進してストップ。はい、OK!で免許無事取得できたよーと笑っていた。スーダンと韓国の道路事情はかなり違うらしいのだが、彼女にある日車で迎えに行くよと言われたときは、さすがに丁寧にお断りした。そんな彼女も、今は3児の母!かっこよく韓国の道を走っていると信じている。    

チョガマダン 군산 맛집 초가마당 식당

チョガマダン 초가마당 식당

チョガマダン  アパートのお向かいに大きな空地があったのだが、ある日その向こう側に一軒だけぽつんと古民家風の建物ができた。そこそこ大きくて、古民家風でありながらもモダンなその建物は、チョガマダンという名のお昼間はカフェ、夜はお酒が飲める食堂としてオープンした。  今のように何でも調べれば情報が出てくる時代ではなかったこともあり、初めて入るお店というのは、雰囲気もメニューも価格帯もまったくわからない。私は住んでいた部屋の南向きの大きな窓から、チョガマダン全体がよく見えたから、たびたびベランダに出て、何かしら情報が得られないかと観察を試みてみたりもしたのだが、お客さんが入っている風でもない。行ってみたい、でも、場違いやったらどうしよう、とか、めちゃくちゃ高かったらどうしよう、とか思ってしまって、なかなか行動できずにいたのだけれど、若いって素晴らしい!怖いもの知らずだし、何だかんだで好奇心が勝ってしまう!  意を決して、木製の大きな重たいドアを押したら、そこには思っていた以上のパラダイスが広がっていた。広々とした店内は、天然木を使ったテーブルやいす、センスの良いインテリア、むき出しの高い天井の大きな梁、明るくて暖かく落ち着く空間そのものだった。初めて来たのに、居心地が良い、そんなお店だった。お昼は、自家製の伝統茶が楽しめるカフェだったが、私は主に夕ご飯を楽しんだ。  オーナーさんの感じも良くて、建物のすぐ横の畑でとれた新鮮で無農薬の野菜を使ったお料理はどれもこれも美味しかった。中でもわたしが特にお気に入りだったのは、ユッケジャン。ここのユッケジャン以上に美味しいユッケジャンにまだ出会ったことはないし、生涯出会うことはないと思う。それくらい美味しいユッケジャンを出してくれるお店だった。材料など何かが特に違うわけではないと思うけれど、とても深く優しい味で、体にいいものを食べている気がした。あれほど行くまで躊躇していたことが嘘のように、わたしはすぐにチョガマダンの虜になり、一日おきに通ってしまうことになる。  ほかにも、トガニタンは、まったく辛くない味なのにも関わらず食べ始めた途端体中から汗が出てきて、びっくりした。体中がデトックスされているのがよくわかった。아~시원해~と無意識につぶやいたほどだ。これほど、시원하다という言葉がぴったりなシチュエーションはないと思う。ここのごはんを食べると、元気になる気がした。 いつも決まって、ごはんの後はトンドンジュとアルタンを楽しんだ。甕に入ったトンドンジュは、甘くてさっぱりしていて飲みやすくてついつい飲みすぎてしまう。いつもきっちり2甕美味しくいただいた。でも、平気。そう、若いって素晴らしい!当時、二日酔いなんて言葉、わたしの辞書にはなかった!  アルタンは、たらこや白子?など魚卵を辛いスープで煮込んだものなのだが、これがまたトンドンジュによく合った。今も韓国に行くと、必ずアルタンを探して歩くのだが、たぶん日本では食べられないお料理だと思う。韓国に行ったら、夜のお楽しみにアルタンとトンドンジュもしくはマッコルリをおススメします。  約10年前、旅行で群山に行ったのだが、チョガマダンは健在だった。建物も、内装もそのままだった。でも、わたしの好きだったユッケジャンやアルタンはもうメニューにはなかった。キムチの古漬けをお鍋にしたキムチチム専門店になっていた。今や幻の味になっちゃったなぁ。  だけど、次回韓国に行くときは、もう一度チョガマダンに行きたいとは思っている。

カフェとヒジョンの話2025.2.8

カフェとヒジョンの話

カフェとヒジョンの話    群山にもカフェがいくつかあった。  今みたいに世界的なチェーンや、おしゃれなカフェはなかったけど、市内に行くと個人経営のようなカフェがあった。メニューは基本的なドリンクのみだった。でも、今と大きく違うのは、食べ物の持ち込みOKなことだった。どこかのケーキ屋さんで買ってきたケーキを持ち込んで、注文したコーヒーとともに楽しむなんてことはふつうの光景だった。   少し話がそれるが。今は韓国発のおいしくてかわいらしいスイーツがいろいろあるけれど、この当時、韓国にスイーツなんてすてきなものはなかった。ソウルですら、おいしいケーキやパンが食べたければ、日本で修行してきた職人さんがいるお店に行かなければならなかったし、数も多くはなかった。そして、肝心のお味は、なんだかなぁ・・・なものが多かった。町中にあるたいていのケーキ屋さんのケーキには、いちごのかわりにミニトマトがのっていたし、生クリームではなくバタークリームが主流だった。それが、20年後にはこんなに変わるなんて!   群山にいるとき、カフェへはひとつ年下の友達とよく行った。ヒジョンというめちゃくちゃ美人でめちゃくちゃ優しい子だった。彼女とは、大学の中の社会人向けの英語講座で知り合った。群山大学の英語科を卒業した彼女は、航空会社への就職に向けて英語講座に熱心に通っていた。ある日の授業後に少し立ち話をする機会があって、そこから、私たちはすぐに仲良しになった。ヒジョンのお姉さんのご主人は、日本でいうところの外務省にお勤めだったので、ヒジョンは大学を休学し、お姉さん夫婦の赴任先であるスーダンに帯同した貴重な経験を持っていた。スーダンの比較的安全な場所に住んでいたのだが、そこでの出来事や、旅行で訪れた中東の話はとても興味深かった。今の情勢では、絶対に訪れることのできない国や、壊されて永遠に姿を消してしまった歴史的価値のある建物や遺産、光景もたくさん見てきた彼女は私にいろんな世界を見せてくれた。スーダンのGがどれほど大きいかなんて話で盛り上がって笑い転げたことも懐かしい。   ヒジョンはその後、しばらくして仁川空港に就職が決まり、当時本国勤務だったお姉さん夫婦が住んでいた京畿道のイルサンに引っ越すのだが、時を同じくして私も偶然イルサンに住むことになる。ヒジョンは、私が結婚するときには介添人を務めてくれたし、長男を出産した際にもたくさん助けてくれた。日本の両親が韓国に遊びにくるときは、私に代わり、仕事を抜けて空港での出迎えから、空港バスに親が乗るまでをサポートしてくれた。ヒジョンはいつもにこにこしていて、お料理上手で、美容にも詳しかった。彼女とのおしゃべり時間はいつもいつも楽しかった。今でもとても大切な、そして自慢の友人だ。   ヒジョンとよく行った群山のカフェはどこも、コーヒーを一杯注文すると、クッキーだの、バナナだの、お皿に山盛りのお菓子が出てくるのがふつうだった。だから、コーヒー一杯で長居できたし、おなかは満足した。うっかりランチを食べすぎた後に行ったカフェでは、クッキーの山を前に、ランチを食べすぎたことを後悔したことは数知れない。私は、てっきりこのサービスが韓国どこでも共通なのかと思っていたけれど、ソウルではそうではなかったらしい。この事実を知った時のがっかり感は相当なものだった。なんやねん、損した気分やん、と。コーヒー一杯で元を取ろうとする関西人気質がついつい出てしまう・・・。   今でもソウルに行くと、必ずカフェに行く。朝早くから空いているところも多いから、チェーンのパン屋さんのカフェで朝食を兼ねてコーヒーを飲んだり、歩き疲れて、そこらへんのカフェで休憩することも多い。そして、たくさん歩いたんやし、と言い訳をして美味しそうなスイーツも注文してしまう。カフェに行くとやっぱりテンションが上がってしまうよね。

優しい人

優しい人

優しい人  アパートからタクシーで20分くらいのところに大型マートができた。それまで、個人商店のような小さなマートか、それよりは少し大きめのスーパーしかなかった群山に初めてできた全国展開の大型マート。黄色がメインカラーのマート、と言えばわかるだろうか。食料品はもちろん、衣料品、生活雑貨、玩具、文房具など生活に必要なものすべてが揃い、フードコートもあるこの大型マートの誕生は、待ってました!と思わずガッツポーズを決めたくなるような嬉しさだった。  週末になると、遠回りになるけどバスで市内まで行き、そこから10分程度タクシーに乗る。帰りはマート前からタクシーでアパートまで帰る。当時の私たちは車を持っていない学生だったから、タクシーに頼らざるを得なかったのだけれど、その時の群山ならタクシーの初乗りが170円程度だったから、負担になるほどでなかったのはラッキーだった。  その日、わたしたちはいつものように市内までバスで移動し、市内の飲食店でランチをし、午後からタクシーでマートに向かった。そして、いつも通り海外マートにありがちな大きなカートを押しながら、必要な食料品や雑貨を選び、レジに並んだ。ベルトコンベアの上に商品を載せ、店員さんがバーコードを読み取り、お会計がどんどん進む。そして、いざお支払いという段階で、お財布がないことに気づいた。タクシー降りたときはちゃんとあったはず。 え?え?え?とりあえず、お会計を保留にしてもらい、そこらへんを歩き回り、どこかに置き忘れていないか探し回った。お店の外も探し回った。最悪、中身はなくなってもお財布だけでもごみ箱に捨てられていないかも探し回った。  お財布には、クレジットカード、外国人登録証、おろしたばかりの現金数万円と、学生にしたらまぁまぁな金額の残高が印字されたATMの明細票が入っていた。夫の姉がプレゼントしてくれたお財布だけでもせめて戻ってきてほしかった。でも、もう、いろいろあきらめきれへんけど、あきらめなあかんやつ・・・。  マートでのお買い物は申し訳ないけどキャンセルして、いったん家に帰った。アパートについてから家にあるお金でタクシー料金を払い、日本の親に電話し、クレジットカードをとめてもらった。もうどうしようもないけど、今日はとりあえず寝るしかないやん。  次の日は日曜で、私の心とは真逆でよく晴れていた。仕方なしに、ベランダでお洗濯ものを干していたら、ピンポンが鳴った。ピンポンが鳴るときはたいていしつこい宗教の勧誘だったから、この朝のピンポンはただでさえささくれてる私の神経を逆なでするかのようだった。  夫が対応したのだが、ピンポンを鳴らしたのはなんと警察の方だった。昨日、お財布の落とし物届けがありました。中身を確認すると、外国人登録証があって、その住所がこちらだったので伺いました、といった内容のことを言われた。中身を確認するように言われて、その場で確認したのだが、すべてが完璧なまでにそのままだった!クレジットカードも、現金も、明細票までもがそのままだった。 本当に信じられなかった。  警察の方にお礼を言い、落とし物をとどけてくれた方の連絡先を聞き、すぐに電話した。お礼をお伝えし、なにか形でもお礼をさせていただいたいと申し出たのだが、それは丁寧に固辞された。当然のことなのでそこまでしていただかなくても。と。本当にそんなことがあるんや。しかも自分の身に起きたんや。世の中にそんな奇特な人がほんまに存在するんや。  ほんまにほんまにありがたかった。いったんは、あきらめたすべてのものが、そっくりそのままで戻ってきたのだから。名前も顔も知らない方だが、今も私の中で、とても優しかった人として記憶している。

軍隊宿舎風居酒屋(군대 내무반 스타일의 술집)

軍隊宿舎風居酒屋(군대 내무반 스타일의 술집)

軍隊宿舎風居酒屋(군대 내무반 스타일의 술집) アパートから歩いて10-15分くらいのところに、ナウン洞という場所があった。繁華街というほどでもないけど、飲食店や少し大きめのスーパーなどが集まっていた。わたしたちは、時々このナウン洞に出かけては、ごはんを食べたり、お酒を飲んだりした。  中でもお気に入りのお店は、内装が軍隊の宿舎風の居酒屋だった。通路を挟んで、両側に座席があるのだが、壁にはずらっとロッカーが並んでいて、軍服がハンガーにかけられ、オブジェとして銃が飾られていた。除隊して2年ほどだった夫は、懐かしいのと、思い出したくないのと、落ち着かないのとで複雑な心境のようだったが、わたしにはすべてが新鮮で、行くたびにわくわくした。  韓国男性は、大学2回生くらいで休学して軍隊に行く人が多い。いかに軍隊が過酷だったか、韓国男性に語らせたら、きっと時間がいくらあっても足りないだろうと思う。今は期間も短くなり、スマホが持ち込めたり、お給料が増額されたり、待遇や環境がかなり改善されているようだが、夫が軍人だったころは今とは比べ物にならないくらい大変だったという。夫は、陸軍だったので、期間は2年2か月。お給料は月に860円程度。訓練中に不慮の事故などがあったとしても、遺族に支払われる保障はごくわずかなものだったそうだ。また、ドラマ「D.P.脱走兵追跡官」など見ていても、夫に言わせると、描かれているエピソードは、誇張された完全なドラマの世界でもないらしい。  さて。この軍隊宿舎風居酒屋だが、メニューはいたってふつうだった。軍隊風の給食とか出てきたらおもしろかっただろうと思うのだが。ただ、ひとつだけびっくりしたメニューがある。メニューと言えるほどでもないのだが、インスタントラーメン。お湯でゆがくタイプではなく、そのままかじるタイプのラーメンである。適当に割ったラーメンに添付の粉末のスープを少しずつ振りかけて食べるのが正式な方法?だ。歯ごたえはカリカリ・ポリポリしていいが、正直美味しいのかどうかは今でもわからない。安いのと、雰囲気に合うのとでよく注文したが、よく喉が渇くのでビールが進んで仕方ない。あれは、お店の戦略だったのだろうか。ちなみに、このタイプのラーメンは今も韓国のマートで販売されていると思うので、よろしければぜひお試しください。  軍隊とは関係ないが、このお店のトイレは外にあった。いったんお店の裏口?から外に出ると、駐車場のような空地があってトイレはそこにあった。古いトイレで、たしか和式だったと記憶している。お水を流すときは、天井からぶら下がっている紐を引く。すると頭上に設置されているタンクからお水が流れてくるシステムだ。足でペダルを踏むか、レバーで流すタイプのトイレしか知らなかったわたしには、かなり驚きだった。設置されているといっても、しっかり固定されているふうでもなく、またタンクも黄ばんだ古いプラスチックの箱状のものだったので、頭上からお水が降ってこないか、タンクが割れないか心配になり、用を足している間ずっとタンクを見上げて確認していたことを思い出す。  そんなトイレも含めて、わたしにはすべてが楽しいお店だったが、今思えばお客さんの入りはよくなかった。いつ行っても数組だけだった。だからなのか、いつの間にか閉店してしまって、心底残念だった。 韓国の特に男性には、見慣れた光景だし、美味しいお酒を飲みながらの友人との楽しい時間を、敢えて軍隊を思い出すような場所で過ごしたくもないんやろうなぁと推測する。  だが、日本からの観光客なんて一人もいない群山だったが、日本人が来ればこのお店を気に入ったと思うし、日本でこんな感じのお店があったら、絶対大人気になるだろうと思う。できれば、このお店そっくりそのまま日本に持って行けないか、わたしは、あの頃と変わらずに実は今もそのことを真剣に考えているほどだ。

家

家 大学の近くには学生向けのワンルームがたくさんあった。大学内には、寮もあった。夫の友人たちは、ほとんどが親元を離れて群山に来ていたので、みんなワンルームか寮に住んでいた。少数ではあるが、昔ながらの下宿に住んでいる夫の友人もいた。ある時この下宿に招待されたことがある。 隣は大家さんの住む一軒家があって、農家なのか敷地内には大家さんの畑が広がっていた。友人たちが住んでいるのは、古い平屋の長屋のような建物であった。アルミの玄関ドアを開けると、2畳くらいの土間があって、一角に簡単なシンクとガス台、そして小さな冷蔵庫が置かれていた。土間の奥には50センチ程度高くなったところに4畳半程度のオンドル床の部屋があった。聞けば、その4畳半の部屋に友人4人で暮らしているという。今でいうところのシェアハウスの感覚に近いのかな。テレビも机もなく、簡単な棚があるだけの質素なお部屋だったが、土間もキッチンもすべてお掃除が行き届いていて、とてもきれいだった。軍隊に行けば誰でもきれい好きになるし、掃除をしっかりするようになるのだと笑っていた。机がなくても、大学の図書館で夜遅くまで勉強できる、テレビを見る暇もない、だから物がなくても不自由はしないのだとも。 ただひとつ衝撃だったのは、外にあるトイレとシャワーだ。どちらもコンクリートのブロック塀で囲まれただけの、これ以上ないくらい簡易な建物だった。脱衣所もなく、気密性のあるドアもなく、本当にシャワーが壁についているだけのもの。トイレも水洗ではなかったように記憶している。それでも彼らは、仲が良かったし、毎日楽しそうだった。いつ会っても陽気だったし、優しかった。警察官の試験を受けるために昼夜勉強していた彼らは、今どうしているのだろう。時には、群山での生活を懐かしく思い出したりしているだろうか。   もうひとつ、なかなかの衝撃を受けた生活スタイルを貫いている先輩がいた。その先輩もやはり親元を離れて群山に来ていたのだが、家を持っていなかった。寝るためだけに帰る家なら、時間もお金ももったいないから不要だと言っていた。院生だったので基本的には、一日中研究室で過ごす。食事は、一日三食すべて大学内の食堂で済ませる。大学には複数の食堂が点在していて、それぞれお昼はもちろん朝も夜もごはんが安い値段で提供された。食堂が違えば味も違うから、飽きることもない。お風呂は、研究室がある棟のトイレの水栓にホースをつなげてそこで冷たい冷水のシャワーを浴びる。冬ですら、それで平気だと言っていた。むしろ、頭がシャキッとして集中力が高まるからいいのだと。寝るときは、研究室の大きな机がベッドになる。着替えなどの私物は、古い車を倉庫代わりに使っていた。 それで体を壊さないのが不思議だったが、勉学が生活のすべてで、勉学のためなら、多少のこと(多少どころではないが)は我慢できる、と言い切る強い人だった。   大学の日語日文学科で日本語を学んでいた年下の女の子は、考試院に住んでいた。節約のためなら不自由さも気になりません、とかわいらしい日本語で話していた姿が印象に残っている。考試院も今はきれいになって、快適なところも増えていると聞くが、20年以上前の韓国の田舎の考試院は、快適とは真逆のところだったと思う。ベッドと机だけの小さな空間、トイレとシャワーは共同。年頃の女の子には、よほどの信念がないと住めないんじゃないかと思ってしまうそんな場所だった。彼女が、一度うちへ遊びに来たことがある。壁中に私が貼っていた韓国語の単語や文法を覚えやすいようイラスト入りで書いたポストイットをかわいいと言ってくれたこと、いちばん美味しいラーメンを作ってあげますとインスタントの安城湯麺を作ってくれたこと、とても優しい思い出だ。彼女は今どこで何をしているのだろう。彼女の思い出の中に今も私がいたら嬉しいなと思う。