家

家 大学の近くには学生向けのワンルームがたくさんあった。大学内には、寮もあった。夫の友人たちは、ほとんどが親元を離れて群山に来ていたので、みんなワンルームか寮に住んでいた。少数ではあるが、昔ながらの下宿に住んでいる夫の友人もいた。ある時この下宿に招待されたことがある。 隣は大家さんの住む一軒家があって、農家なのか敷地内には大家さんの畑が広がっていた。友人たちが住んでいるのは、古い平屋の長屋のような建物であった。アルミの玄関ドアを開けると、2畳くらいの土間があって、一角に簡単なシンクとガス台、そして小さな冷蔵庫が置かれていた。土間の奥には50センチ程度高くなったところに4畳半程度のオンドル床の部屋があった。聞けば、その4畳半の部屋に友人4人で暮らしているという。今でいうところのシェアハウスの感覚に近いのかな。テレビも机もなく、簡単な棚があるだけの質素なお部屋だったが、土間もキッチンもすべてお掃除が行き届いていて、とてもきれいだった。軍隊に行けば誰でもきれい好きになるし、掃除をしっかりするようになるのだと笑っていた。机がなくても、大学の図書館で夜遅くまで勉強できる、テレビを見る暇もない、だから物がなくても不自由はしないのだとも。 ただひとつ衝撃だったのは、外にあるトイレとシャワーだ。どちらもコンクリートのブロック塀で囲まれただけの、これ以上ないくらい簡易な建物だった。脱衣所もなく、気密性のあるドアもなく、本当にシャワーが壁についているだけのもの。トイレも水洗ではなかったように記憶している。それでも彼らは、仲が良かったし、毎日楽しそうだった。いつ会っても陽気だったし、優しかった。警察官の試験を受けるために昼夜勉強していた彼らは、今どうしているのだろう。時には、群山での生活を懐かしく思い出したりしているだろうか。   もうひとつ、なかなかの衝撃を受けた生活スタイルを貫いている先輩がいた。その先輩もやはり親元を離れて群山に来ていたのだが、家を持っていなかった。寝るためだけに帰る家なら、時間もお金ももったいないから不要だと言っていた。院生だったので基本的には、一日中研究室で過ごす。食事は、一日三食すべて大学内の食堂で済ませる。大学には複数の食堂が点在していて、それぞれお昼はもちろん朝も夜もごはんが安い値段で提供された。食堂が違えば味も違うから、飽きることもない。お風呂は、研究室がある棟のトイレの水栓にホースをつなげてそこで冷たい冷水のシャワーを浴びる。冬ですら、それで平気だと言っていた。むしろ、頭がシャキッとして集中力が高まるからいいのだと。寝るときは、研究室の大きな机がベッドになる。着替えなどの私物は、古い車を倉庫代わりに使っていた。 それで体を壊さないのが不思議だったが、勉学が生活のすべてで、勉学のためなら、多少のこと(多少どころではないが)は我慢できる、と言い切る強い人だった。   大学の日語日文学科で日本語を学んでいた年下の女の子は、考試院に住んでいた。節約のためなら不自由さも気になりません、とかわいらしい日本語で話していた姿が印象に残っている。考試院も今はきれいになって、快適なところも増えていると聞くが、20年以上前の韓国の田舎の考試院は、快適とは真逆のところだったと思う。ベッドと机だけの小さな空間、トイレとシャワーは共同。年頃の女の子には、よほどの信念がないと住めないんじゃないかと思ってしまうそんな場所だった。彼女が、一度うちへ遊びに来たことがある。壁中に私が貼っていた韓国語の単語や文法を覚えやすいようイラスト入りで書いたポストイットをかわいいと言ってくれたこと、いちばん美味しいラーメンを作ってあげますとインスタントの安城湯麺を作ってくれたこと、とても優しい思い出だ。彼女は今どこで何をしているのだろう。彼女の思い出の中に今も私がいたら嬉しいなと思う。